『兼高かおる世界の旅』に魅せられて

1986年、内モンゴル東ウジムチンにて

  子どもの頃、日曜の朝は『兼高かおる世界の旅』を見るのが楽しみだった。

 私と同じ昭和世代には、この番組で世界の旅に憧れたひとも多いだろう。

 1959年から90年まで30年以上続いた旅番組。

 兼高さんは約150カ国を巡ったという。

 

 優雅さと気品に包まれた好奇心がたくさん詰まっている、まるで開けて食べてみないとわからない舶来のチョコレートのような味わい深い番組だった。

 ブラウン管の中に覗く『兼高かおる世界の旅』はとにかく刺激的だった。

 フィルム映像で紹介される、見たこともない景色やひとびと。

 聞いたこともない土地の音。儀式やしきたり。

 そこへ、聞き手の芥川隆行さんと兼高さんのナレーションでの掛け合いが絶妙に絡んでいく。

 

 「旅人・兼高かおるさん」の佇まいと上品な語りには毎回魅了された。

 エキゾチックなお顔立ちに、装いもおしゃれ。

 それはどこか異国のお姫様のようにも感じられた。

 異郷の地でも物怖じせず、いつも好奇心でキラキラ煌めいていらっしゃる。 

  そうか、外国へ旅するにはこういうオトナにならなくちゃいけないのだな。

 そして「旅人」という職業があるのならそれになりたい、そう思ったほどだった。

 

上海の空港で、長年愛用のスーツケースに座って記念写真

 いつしか女優になった私は、映画やドラマで役を演じる一方、文章を書いたり旅番組にも出るようになった。

 当時のマネジャーが、そういった仕事をせっせと売り込んでいたのだった。

 彼女の野望は、私を兼高かおるのような世界中を旅する女優にすることだったらしい。なんたる野望……。

 

 ある日、中国・内モンゴル自治区への旅番組の話がきた。

 万里の長城から北上しナーダム大会という祭りに、初めてテレビカメラが入るという取材だった。

  

 盛り上がっていたのは、私のマネジャー女史とディレクターの大野清司氏。(大野氏は後に緒形拳さんと万里の長城を旅した『世界遺産』(TBS)を企画立ち上げた名プロデューサー)。

  さらに、TBS映画社が作る番組だということも、私の興味をそそった。なぜなら『兼高かおる世界の旅』の制作会社だったからだ。

 

 人生初の世界辺境旅行。

 「兼高かおる世界の旅」とまではいかないが、旅番組って本当に大変なんだと体感したロケだった。その時の様子をお伝えしよう。

 

内モンゴルの大草原で

 ロケ隊は、ディレクターと私、カメラマン、音声さん。

そこへ、中国政府から同行する通訳1名と中国当局側の1名、マネジャーも加わって計7名。

  辺境の地に行くということで、私はスーツケースではなく大きなリュックを一つ背負って成田空港を出発した。

 

 北京から入り、万里の長城壁沿いに北上。

 長城らしき城壁や土塁の壁をところどころに望みながら、包頭(パオトウ)、呼和浩特(フフホト)、シリンホトを経て、内モンゴル自治区の東ウジムチンへ。

 辺境の地に行く覚悟はあったものの、陰山山脈を越えるあたりから、突然不安と悲しみに襲われた。

 

 ちょうど王昭君の墓をリポートしているときのことだった。

 うねうねと連なる陰山山脈を前に、ただただ物哀しく不安が押し寄せてきた。

 

 「私がしたかったのはこういう旅じゃないんだよね!」と口を尖らしながら無下に吐き捨てる私。

 マネジャー女史がすかさず「へえ、じゃあどんな旅だっていうの?」と、嘲笑まじりに畳みかける。

 「だってさ、これじゃ王昭君と同じじゃん」などと意味不明にぶちまける私。

 「それでいいじゃん! そういうあなたらしさが出てればいいんだって!」と逆に発破をかけられた。

 

 以来背伸びせず、あるがまま感じたままを伝えるようになれた。  

 兼高さんのように美しく気品漂う日本語は使えないけれど、あたし流の言葉で伝えればいい。とにかく全身を観察眼にして旅に貪りついた。

 

 自己の健康管理も大事な辺境の海外ロケ。

 路上のアイスキャンディーは “不衛生”だからと固く禁じられていたのだが、好奇心でつい買い食い、案の定腹を壊した。

 辺境でのトイレ事情は筆舌に尽くしがたいほど最悪だし、これ以上過酷な移動は困難だった。

 

 おかげで半日撮影休止に。

 しかし、ピンチはチャンスと言わんばかりにディレクターは喜々としていた。

 モンゴル文字だらけの病院で中医の診察を受ける私の傍で、壁一面の生薬棚の引き出しから何十種類もの漢方が素早い手さばきで処方されるまでをしっかり観察。

 マネジャー女史は、その漢方ちょっと舐めさせて、と舌舐めずりする有様。

 

 旅とは、こうしていろんなことに蹴つまずき、かさぶたをこさえ、免疫をつけてゆくものだと身をもって学んだ。

 

 旅では、その土地に擬態するのが断然楽しいことも学んだ。

 モンゴルの民族衣裳を身にまとい、髪型もそれらしく結ってもらう。

 すると本当に、たどたどしかったやりとりが和やかになる。

 

 ハエがたかる食堂でいかにも怪しげな羊の頭の水煮を口にしたり(現地では客をもてなす大変なご馳走)、大地で羊を捌く聖なる光景もじっくり観察した。

  

 祭りではぐれたマネジャー女史は、祭り広場の見知らぬパオからひょっこり出てきたと思ったら「あーん、求婚されちゃった! ほらみて素敵な指輪ももらっちゃった、でっへっへ」と馬乳酒で超ご機嫌だった。ヤレヤレ。

 

 しかし、このとんでもない破天荒で天真爛漫なマネジャー女史のおかげで、兼高かおるさんの足元にも及ばないものの、私は旅番組の仕事が増え、執筆の仕事もちらほら抱えるようになったのだから、頭が上がらない。

 

1996年、空が近いヒマラヤのクムジュン村で

  誰しも気軽に海外旅行を楽しむようになった96年。

 とはいってもまだスマートフォンが普及していない頃。

 私はとうとう世界最高峰のエベレストに出会う旅に出る。

 『世界ウルルン滞在記』という番組で、こちらもTBSだった。

 

 小学校時代の担任教師が、女性初のエベレスト登山隊の一員だったという話をしたのがきっかけだった。

 「先生が見たエベレスト街道を、エベレストに出会いたい」というテーマで、クムジュン村のシェルパのご家庭に1週間滞在。

 滞在先は、植村直己さんがエベレスト登頂の際シェルパを務めたぺンパ・テンジンさんのご自宅だった。

 1週間単身、私はシェルパの家庭に少しでも馴染もうと、お嫁さんのスカートからセーターに至るまでお借りした。

 

 内モンゴル同様、ここでも一週間風呂なし生活。

 ヤク小屋の上に暮らす私へ毎朝、あたたかいミルクティーとビスケットを運んでくれたテンジンさん。私の髪の毛をいつも撫でつけてくれ、本当の娘のように可愛がってくれた奥さん。

 働き者のお嫁さんとヤク達に囲まれ、3790mという標高もなんのその、毎日新しい何かが待ち受けているワクワクの滞在生活だった。

 

先頭にテンジン氏、ナムチェバザールへの道を行く

  初日からスタッフが高山病に見舞われ、遅れて撮影隊がテンジンさん宅にやってきた。

 しかし私を探すもどこにもいない。

 テンジンさんに聞くと、彼女はあそこだと遥か遠くを指差した。

 エベレスト街道が見える丘を目指し、巡礼者のように歩く豆粒大の私の姿がそこにあった(らしい)。

 

 中東など危険地域も潜ってきたドキュメンタリーカメラマンが、慌てて重たいカメラを担ぎ私をフレームに収めようとフォーカスを合わせる。

 あとでカメラマンと二人で立ち話になったとき「あの朝、あそこにひとりで登っていくあなたの姿をみて、このロケはきっと成功すると確信した」と聞いた。

 最初に成田空港で見かけた私の姿と荷物の少なさに、「華奢な体でしかも女優がバックパッカーのようなリュックと小さなスーツケース一個だけの荷物。

 「あんなんで大丈夫なのか?」と目を伏せたらしい。(秘境辺境のロケになると女優はもっと荷物が多いらしい)。

 

 『ウルルン滞在記』では、私もしっかり制作スタッフの一員としてロケに臨む。

 高地での過酷なロケと決められた滞在時間。

 1週間毎日エベレストが見えるのを待ったが、テンジンさんは「トゥモロウ、トゥモロウ」と言うだけで、タイムアップ。

 結局、姿見えぬエベレストをあとに、機材とテープだらけの軍用輸送ヘリコプターでクムジュンを飛び立った。

 別れ際、いつまでも我々のヘリを見送っていたテンジンさんの姿が今でも記憶に焼きつている。

 

 しばらくしたその瞬間「エベレストだ!」と誰かが叫んだ。

 慌ててカメラを構えるカメラマン。

 窓際にその姿を探す私。

 「あった、エベレストだ! エベレストが見えた!」

 その決定的瞬間をカメラが捉え、エベレストと私にフォーカスする。

 

 ずっと姿を現さなかったエベレストが、最後に帰る途中で見られたとは!

 これはテンジンさんからのギフトだ。

 私たちロケ隊はこの奇跡に涙しながら、互いに肩を抱き合って喜んだ。

 

チチェンイッツァ遺跡、イビザ城、グエル公園、バリ島、旅のあれこれ

 世界の旅も便利になった現在。

 スマホさえあれば飛行機も宿も簡単に予約ができる。

 リコンファームに現地航空会社支店へ立ち寄らなくてもいいし、お勧めのレストランも教えてくれる。地図はGoogleナビがあるし、写真も動画も容易に撮れる。『2001年宇宙の旅』がやっとリアルになった時代。

 

 それにしてもいくつになっても旅は素晴らしい。

 細胞を活性化させ、新たな発見もある。

 辺境へ旅するならば、スタミナのある若い時がいい。

 旅の記憶はずっと残る。

 その記憶とともに誰かとゆっくり旅を語り合うのもまたいいものだろう。

 

 『兼高かおる世界の旅』をみていた子どもだった私は知らぬ間にオトナになり、知識欲に目覚め、世界を旅するたびに何かを得て成長した。

 そんな素晴らしい番組を残してくださった兼高さんに感謝の気持ちでいっぱいだ。

 兼高さんの訃報を耳にした時、私は懐かしいあの番組のオープニングが記憶の小箱からよみがえった。

 

 今頃はどのあたりを旅していらっしゃるのかしら。

 ゆっくり旅を愉しんでほしいと願うばかりだ。

 どうぞ安らかに。

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