幻の東京オリンピック大会 国際スポーツの最大の敵は軍国主義だ

クーベルタン男爵(国立国会図書館資料)

アジア初のIOC委員就任

戦後2回目の東京オリンピック大会が来年に迫った。そこで戦前の<幻の東京オリンピック>を再考したい。それは戦前の暗い時代を象徴する事件と言える。よく知られた史実も少なくないが、あえて煩瑣(はんさ)をいとわず記してみたい。

明治42年(1909)春、駐日フランス大使であったゼラールから東京高等師範学校(現筑波大学)校長・嘉納治五郎に突然の会見申し込みがあった。同大使の説明によると「自分の同窓生であるフランス人クーベルタン男爵(1863~1937)は同志とともに国際オリンピック委員会(IOC)を組織し、1896年に第1回国際オリンピック競技会を催した。以後、4年ごとに同競技会を開催しており、今後さらに発展していく勢いがあるが、IOCは欧米各国の委員で構成され、アジアはまだ一人の委員も参加していない。ついてはアジアを代表して、日本で適当な人物を探して本委員会に参加するように促してもらいたい」というものであった。嘉納には寝耳に水の突然の依頼であった(以下「柔道の歴史と文化」藤堂良明著を参考にし、一部引用する)。

ピエール・ド・クーベルタンはフランスの教育家で教養人であり、嘉納よりも3歳年下である。彼は普仏戦争(1870~71)に敗れたフランスの再建に起ちあがり、21歳の時にイギリスのパブリックスクール(伝統ある私学進学校)で行われていたスポーツ教育に感銘を受けた。「健全な精神は、健全な肉体に宿る」。彼は時あたかもギリシア・オリンピックの発掘調査報告書に刺激を受けて、スポーツによる青少年の教育と古代ギリシャで開催されたというオリンピック休戦を契機とした平和の実現(オリンピアード)を目指して、1894年に国際オリンピック委員会を組織して近代オリンピックを創始したのである。

嘉納に面会する前、ゼラールはクーベルタンの依頼に応じて、日本外務省に助言を求め諸方面に意見を求めた。その結果、講道館柔道創始者であり高等師範校長として生徒に勉学はもとより、長距離走や水泳などの近代体育を奨励し、<スポーツの先覚者>であるということで、嘉納が推薦された。嘉納は躊躇することなく要請を受け入れ、これを機に国際交流を図り、国内では各種スポーツを奨励して国民体力の向上と健全な精神を育成しようと目論んだ。嘉納の国際感覚をここに見る。

ストックホルム・オリンピック大会(筑波大学附属図書館資料)

五輪参加へ、大日本体育協会設立

早速クーベルタンは明治42年(1909)5月、ベルリンで開かれたIOC総会で、嘉納を東洋初のIOC委員として推薦し、翌43年(1910)にはIOC委員会と開催地スウェーデンの双方から、第5回ストックホルム・オリンピック大会参加の勧誘が来た。

IOC委員としての嘉納は参加を決意したが、日本選手選出母体をどうするかで苦心した。文部省に掛け合ったが応じられぬと回答を受け、私立日本体育会にも相談したが拒否された。そこで新団体設立を企画し、明治44年(1911)7月6日、学士会館において「大日本体育協会」という日本初の体育団体の設立が決議され、初代会長に嘉納が就いた。名称は、「体育」協会であり、スポーツ協会とはしなかった。そこには嘉納の体育思想がうかがわれる。後に体育協会内では体育が目的ではなく競技が目的であるから、体育協会の名称を改めて競技連合とすべきという議論も起こった。こうした改革案に対して、嘉納は断固反対し、「自分が体協を組織したのは、どこまでも国民体育を目的としたものである。今、諸君が競技連合に改めたいというならよろしい。自分は別に体育協会を組織する」と述べ、競技連合に改称する案は一喝されたのである。

第5回オリンピック大会の選手予選会は、羽田の陸上競技場で開催された。予選会の陣容は以下の通りであった。
 会長 嘉納治五郎
 総務理事 大森兵蔵、永井道明、安部磯雄

予選後、明治45年(1912)2月15日に大日本体育協会は三島弥彦(短距離、元警視総監三島通庸3男)、金栗四三(マラソン)の2人を決定し発表した。選手が決定すると、在日スウェーデン代理公使サーリンは三島、金栗の両選手を築地の精養軒に招待し、午餐会を催してくれ、国際大会における注意事項も教えてくれた。

いよいよ、大正元年(1912)の第5回ストックホルム・オリンピック大会に初参加することになり、開会式では金栗がNipponのプラカードを、三島が日章旗を持ち、嘉納IOC委員、大島監督、スウェーデン公使2人の計6人だけの行進だったが、日本初の参加ということで会場割れんばかりの拍手が起こったという。参加選手の記録は、三島(東京帝国大学学生)は100m、200mともに予選で失格、400mは予選2着で通過したが、準決勝は棄権した。マラソンの金栗(東京高等師範学校生徒)は日本の予選大会では世界記録を破る好成績を出していたが、石畳が多く照りつける暑さの為に26.7kmでついに棄権した。競技後に嘉納は、「お前たち2人が両種目とも敗れたからといって、日本人の体力が弱いわけではない。将来がまだある故、しっかりやれ」と言って元気づけ、これからの日本人の奮闘に期待したのであった。

嘉納治五郎(高等師範校長時代、講道館蔵)

オリンピック東京招致へ尽力

その後のオリンピック大会では日本人の活躍は目を見張るものがあった。第7回のアントワープ大会で初めてテニスで銀メダルを獲得し、第10回ロサンゼルス大会では「水泳日本」と称され、金メダルを7個も獲得するようになった。そんな折、西暦1940年は、日本において「皇紀2600年」にあたり、「日本書紀」の神話に基づく日本建国の年(紀元)から数えて2600年という意味があった。

そこで、時の東京市長・永田秀次郎は昭和15年(1940)には国を挙げての大祝賀会を目論んだ。永田が東京市長として登場した昭和5年(1930)は、前年ニューヨークの株式市場の大暴落で世界恐慌が起こり、日本経済も大打撃を受けて大量の失業者があふれ、全国的にストライキや小作争議が頻発したのであった。その後も、確実に貧困と戦争への足音が近づいていくのである。東京市秘書課員であった清水昭男は、織田幹雄をはじめオリンピック選手と面識があり、オリンピックを東京で開き世界中の青年に日本の本当の姿を見せようと提案したのである。

そこで、世界一周旅行の体験がある第14代東京市長の永田は東洋初のオリンピックを東京で開催するという壮大な構想を抱いた。だが、日本のスポーツ界の反応は冷たく大日本体育協会の第2代会長に就任していた岸清一は、東京はヨーロッパから遠く地理的な障害があり、宿泊施設も不足している等の理由から反対した。そこで困惑した永田は、時の東京朝日新聞社副社長の下村宏に相談し、嘉納と下村の二人で岸を説得した。昭和6年(1931)に、「帝都繁栄の一助ともするため、第12回オリンピック大会を東京に招致する」という建議案が東京市会に上程され、満場一致で可決された。

東京市長の名前で発したオリンピック招請状、昭和7年(1932)IOCへ提出され、IOCロサンゼルス総会は第12回大会の開催地は3年後の1935年のIOCオスロ総会で決定すると宣言された。しかし、後に決定は1936年のベルリン総会に延期されることとなった。

嘉納は昭和8年(1933)、ウィーンにおけるIOC総会出席後、ドイツ、イギリス等で柔道普及に尽くし帰国したが、岸清一IOC委員はぜんそくを悪化させ、帰らに人となった。昭和11年(1936)7月29日、いよいよ第12回大会の開催地が決定される重要なIOC総会がベルリン大学講堂で開催された。翌7月30日にはイギリスのIOC委員ロード・アバーディアがイギリス開催の撤回を発表。IOC会長のラツールが訪日の印象を語り日本寄りの意見を述べた。翌31日には開催地を選ぶ投票が行われ、東京36票、ヘルシンキ27票で9票差がついて日本開催が決まった。ベルリンからは「東京決定」の日本向けラジオ放送があり、牛島市長は「多年の宿題を果たした」と喜びを隠さず語った。

だが日本は昭和11年に起きた2・26事件以後軍部の横暴が目立ち、盧溝橋事件から日中戦争へと突入していく。軍部は戦争遂行に集中する立場を取り、東京オリンピック開催に反対の圧力をかけて来た。また交戦国である日本にはオリンピックを開く資格がないとして、近代スポーツ発祥の地のイギリスや英連邦諸国が東京大会のボイコットを提唱し始めた。そこでIOC会長ラツールは、3月にカイロで総会を開き東京オリンピックの開催問題を再検討することになった。カイロ総会に出席する日本代表は嘉納の他に組織委員の永井松三ら9人であった。

IOCカイロ総会は、昭和13年(1938)3月10日にリヤルオペラハウスで開会した。論議は開催地問題ではなく、大会準備の遅延について集中し、多くのIOC委員が日本側の姿勢を疑問視して鋭い質問を浴びせた。総会議事録には「大会開始の際に日支紛争終結し居らざるに於いては、日本自身の為にも又国際オリンピック委員会の為にも日本に対して大会開催履行の断念を勧告すべきなりと思料せられたるが、嘉納氏は日本が大会を開催せざるべき、又列国が参加を拒否すべき何等の理由を認めず(中略)討議の後、嘉納氏に対し慎重なる吟味を再度勧告す」とされ、厳しい応酬の中で嘉納の必死の英語での抗弁が行われた。白熱した議論の結果、東京と札幌(冬季)両大会の開催は最終的に承認された。日本代表団が東京に、「米国を除き辛辣なる言説ありしも大会東京開催は現状維持となれり」(原文カタカナ)と電報を送った。

嘉納逝去と<幻の東京五輪>

各国IOC委員の多くが東京開催に不安を隠さなかったが、日本に承認を与えたのは、明治42年以来約30年間もIOC委員を務め、今なおこうして頑張る嘉納へのせめてもの贈り物であったといえる。総会後、嘉納はギリシャに行き前年死去したクーベルタン男爵の心臓埋葬式に参列し、その後アメリカに渡り、米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランド等にカイロ会議における日本支持の感謝を表明するとともに、東京大会に多くの選手を派遣して欲しい旨を伝えた。そして、4月23日にはバンクーバーから氷川丸に乗船し、帰国を待ちわびる日本に向けて太平洋の航路を急いだのである。

しかし、乗船後約2週間後の5月1日から風邪に肺炎を併発し、ついに5月4日午前6時33分に79歳の人生を閉じたのである。昭和13年(1938)5月5日付東京朝日新聞では、「オリンピックの大恩人、帰途の嘉納治五郎翁 船中忽然と逝く、氷川丸で急性肺炎」と報道された。

嘉納の死により、オリンピック参加への精神的支柱と情熱を失った日本では軍部が台頭し、オリンピックどころではなく侵略戦争にばく進して行った。その結果、第12回オリンピック大会は返上され、オリンピックの歴史の中で「幻の東京オリンピック」との「汚点」なってしまったのである(ちなみに、戦時下でありながら講道館では嘉納師範の精神を受け継ぎ、学術優秀でしかも情操豊かな柔道家を育成しようとした。軍国主義的な稽古は行わなかった)。

新聞報道に見る幻のオリンピック

当時の新聞報道ぶりを見てみよう。<幻の東京大会>は、昭和13年に決まった。日本にとっては「皇紀2600年」祝賀行事の一つだ。しかし翌年、日本は中国との戦争に踏み出す。陸軍は、馬術競技への将校の参加を撤回した。政治家からも東京開催反対が出て、混乱した。12月に日本軍は、南京を占領し、年が明けて昭和14年(1939)になると、イギリスや北欧から東京大会反対の声が上がった。

「新聞と『昭和』」(朝日文庫)を参考にし、一部引用する。

「朝日」は、こうした反対は日中戦争が長引いたためだ、と書いた。そして「政治とスポーツは別だ」と東京大会を後押ししたアメリカ五輪委員会委員長ブランデージの主張をよく取り上げた。「横槍を恐るるな!米国・東京大会を支持」(1938年1月20日付)。

一方、イギリスの競技者のボイコットの動きについては「不可解」とし、中国の反対は「泣き言」と断じた。3月のIOC総会で東京大会の日程が正式に決まると、「あらゆる策動陰謀も正義には勝てず」(3月18日付)と書いた。ニューヨーク・タイムズが社説で反対しても、「迷論」(6月22日付)と切って捨てた。

だが紙面上の勢いとは裏腹に、日本政府は1938年7月、「物心両面で不適切」として、五輪を返上を決めた。「すべてを戦争目的に集中せんとする現下の事情に照らし、誠に止むを得ずという外はない」(「朝日」7月15日付社説)。

当時の「朝日」読者には知らされなかったことがある。「日本軍の南京での蛮行や無防備都市爆撃に、民主国家の反対が広がっていた」(7月16日付ワシントン・ポスト)。実は、IOC会長ラツールは、4月に日本の大使に会い、東京大会反対の電報が150通届いたことを告げて、辞退した方が日本の面目のためにもよいのではないか、と勧めていた。極東で協調路線を探るイギリス外務省も、ボイコットはまずいので東京大会を「必ず自然死させよ」と記した文書を残していた。他国の反対した理由を多くの国民は知らないまま、戦後アジア初の東京五輪を昭和39年(1964)に迎えた。

参考文献:「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」(筑波大学出版会)、「柔道の歴史と文化」(藤堂良明)、「新聞と『昭和』」(朝日文庫)。

(つづく)

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