文武両道貫いた、マルチな男の挑戦 名門・早大野球部の小宮山悟新監督

新体制をスタートさせた早大野球部の小宮山悟監督(右)=東京都西東京市

 東京六大学野球リーグに、初のMLB出身監督が誕生した。

 名門・早稲田大学の第20代監督に就任した小宮山悟氏、53歳。1月5日から本格的に指揮を執っている。

 小宮山監督と言えば、プロ野球ロッテのエースとして長らく活躍した印象が強い。

 NPB通算は117勝141敗で防御率は3.71。ストレートは140キロに達するかどうかだった。だが、そのコントロールは「精密機械」と称される技巧派、特に晩年に自ら開発したナックルに近い軌道から予測不能な変化をする魔球に「シェイク」と命名。変幻自在な投球術で人気を博した。

 2001年のオフには長年の夢だった大リーグに挑戦。ニューヨーク・メッツに入団するがメジャーの壁は厚く未勝利のまま(3敗)で帰国、その後再びロッテに復帰して2009年に現役を引退した。

 人一倍「早稲田愛」の強い指揮官である。芝工大柏高から早大に進学するが、2浪しても夢を貫いた。2年からエースとして神宮の主役に躍り出ると、4年時には主将も拝命、在学時代に教員免許も取得しているのだから、まさに文武両道を地でいっていた。

 プロで実績を上げ、ロッテでは将来の幹部候補生の評価を得るも、現役時代の2006年からは何と「二足のわらじ」を決意する。

 選んだ進路は早大大学院のスポーツ科学研究科で「投球フォームに関するバイオメカニクス」を学び、3年後には修士号も取得する。

 現役引退後の11年からは母校のコーチも務め、満を持しての監督就任だ。

 そんな小宮山監督には、かけがいのない恩師が二人いる。一人は早大時代に薫陶を受けた石井連蔵元監督。1901年創部の名門を率いて一時代を築いた名将である。

 厳しい指導の中にも愛情と文武両道の大切さを説いた。その石井元監督から現役引退時に「早稲田に戻ってこい」と声を掛けられたのが、監督就任の大きなきっかけになったという。

 「その言葉が心に刺さって、早稲田に戻ることが一番重たいものになった」と就任会見の席で小宮山監督は語っている。

 そして、もう一人の恩師はロッテ、MLBのメッツ時代に世話になったボビー・バレンタイン氏だ。

 ロッテ時代は右肘を痛めて不調な時期にバレンタイン氏と出会い、メジャー流の調整法を学んで復活した。メッツでも監督だったバレンタイン氏の尽力で挑戦の道が開けた。

 飛田穂洲が早稲田野球の礎を築き、石井藤吉郎、石井連蔵と続いた「ワセダ」の指導者の系譜は日本野球界の歴史と言っても過言ではない。

 一方で重過ぎるほどの伝統と名だたるOB達の激励は時として重圧となり、変革の障害にもなってきた。

 人間力と精神主義の指導は尊いが、時代とともに名門クラブの運営も変えなければならない時期に来ている。

 そんなときに人一倍、早稲田を愛しプロの厳しさも知り、なおかつメジャー流の最新の育成法も知る小宮山監督の誕生は時代の要請でもあったのだろう。

 就任直後から「小宮山色」は打ち出されている。

 早大伝統の「一球入魂」の精神を訴える一方で、これまで新入生に義務付けられていた丸刈りは廃止して「ニュー早稲田」への第一歩とした。

 5日に行われた新年初練習では、いきなりロッテ並みの“走れ走れ”トレーニングを課している。

 今や、大学球界にプロ出身監督は珍しくない。ライバルの慶応大学では15年から元近鉄の大久保秀昭監督が指揮を執っている。

 近年は推薦入部枠の減少や一般入試のハードルも高くなり人材の確保も容易ではない。

 加えて、現在の東京六大学は戦国時代に突入、早稲田のリーグ優勝は3年前にさかのぼる。

 小宮山監督の理想とするチームは02、03年とリーグ連覇した当時の早大。現ヤクルトの青木、同阪神の鳥谷らを擁した黄金期だ。

 「隙のないチーム、あの雰囲気まで持っていけたらね」

 プロ野球のエースと言われた時代に母校に帰って学び、現役引退後もサッカーのJリーグ理事(非常勤)まで歴任するマルチな男の新たな挑戦、大学野球の起爆剤としても期待が集まる。

荒川 和夫プロフィル

スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。

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