殿堂入りした脇村春夫元高野連会長 プロとアマ、野球界の雪解けを推進

野球殿堂入りが決まった脇村春夫氏【写真:細野能功】

高校時代は内野手として神奈川・湘南高校の初優勝に貢献

 2019年の野球殿堂特別表彰で選出された脇村春夫氏は、1932年1月東京都生まれ。2002年から2008年まで、日本高等学校野球連盟の会長を務めた。

 脇村春夫氏の父・禮次郎氏は三菱銀行の役員として財界で活躍した。母・祐子氏の兄は日清製粉の正田英三郎会長で、その長女が皇后美智子陛下。つまり、脇村氏は皇后陛下の従兄に当たる。

 脇村氏は1948年神奈川県立湘南高校に入学し、野球部に入った。当時、湘南は1946年から神奈川県大会に出場し始めた新興高校だったが、2年生時の1949年は戦力が充実し、神奈川県大会決勝で神奈川商工を3-1で破って夏の甲子園に初出場を決めた。

 甲子園でも2回戦で城東(南四国・徳島)を9-3、準々決勝で松本市立(信越・長野)を2-1、準決勝で延長10回の末に高松一(北四国・香川)を3-2で破って決勝に進出。決勝では花井悠(のち慶應大、西鉄)を擁する岐阜(三岐・岐阜)を5-3で破り、初出場初優勝を果たした。エースで主将の田中孝一は好投手ではあったが、有力選手がいたわけではなかった。

 脇村氏は決勝戦に「2番・三塁」で先発出場。この試合に「7番・左翼」で出場したのが、1年生だった佐々木信也氏。のち高橋ユニオンズなどを経て解説者となり、「プロ野球ニュース」の名キャスターとして親しまれた。湘南の佐々木久男監督は、信也氏の父。この時の湘南の優勝は「奇跡」と言われ、「学生野球の父」飛田穂州は「無欲の勝利」と讃えた。

 脇村氏はその後、東京大学に進み、硬式野球部で内野手として活躍。卒業後は東洋紡績株式会社に入社し、社会人野球でも活躍した。野球を引退後は東洋紡専務を経て、系列の新興産業社長を歴任した。

 そして2002年に牧野直隆氏の後任として、日本高等学校野球連盟の第5代会長に就任する。

日本高野連会長に就任直後からプロアマの障壁撤廃に尽力

 2004年1月9日、プロ野球の川島広守コミッショナーを訪問。表向きは前年12月にスタートした、日本野球機構、日本プロ野球選手会、日本高野連が主催するプロ野球現役選手によるシンポジウム「夢の向こうに」の御礼を述べるためだったが、脇村氏には1つの覚悟があった。それは「プロ野球と高校野球の雪解け」だった。

 昭和時代のプロ野球は、高校、大学、社会人野球の有望選手を多額の契約金を使って引き抜いた。これに対して、アマチュア野球は激しく反発。1961年、中日が申し合わせを破って、日本生命の柳川福三外野手を引き抜いた「柳川事件」をきっかけに、プロとアマは「断絶状態」となっていた。

 これ以降、プロ選手はアマ選手に指導することも、接触することもできず。このために、巨人の長嶋茂雄監督は、立教大でプレーしていた息子の長嶋一茂選手に、自宅でアドバイスすることさえできない、という事態に陥っていた。

 しかし、野球の国際化に伴って、プロアマは連携する必要性に迫られていた。1999年シドニー五輪アジア予選では、アマチュアから選抜された選手と、松坂大輔(西武)、古田敦也(ヤクルト)ら8人のプロ選手が1つのチームを作って参加していた。

 この時の経験もあり、プロアマの障壁を取り除くべきだと痛感していたのは、当時プロ野球選手会会長を務めていた古田敦也選手だった。古田会長は2003年3月、オープン戦で関西を訪れた際に大阪市内の日本高野連本部を訪ね、脇村会長と会食し、「プロアマの雪解け」の必要性について話し合っていた。この時、特にドラフト制度についてプロとアマが協議しながらルールを作っていく必要性があると強調。脇村会長もこれに強く同意し、プロ野球側に働きかけるべきだと考えたという。

 シンポジウム「夢の向こうに」も、古田、脇村両会長の尽力で実現したものだったが、この機会にプロ野球に和解を働きかけようという意図もあったという。一方で、プロ野球の川島コミッショナーは、2004年1月末での退任が決まっていた。この機会を逃すとチャンスはなくなると考えた脇村会長の決意は固かった。

2004年に川島コミッショナーと「ドラフト制度に関する覚書」に調印

 脇村会長は「正式なルールに基づくプロアマ交流の原案」という書類を川島コミッショナーに手渡し、これに基づいてプロとアマがドラフト制度について協議することとなった。

 この結果、2004年1月28日、NPBと高野連は「ドラフト制度に関する覚書」に調印した。その骨子は以下の通りだ。

1.高校生をドラフトの自由獲得枠対象にしない。
2.高校生に関するドラフトの制度変更は、日本高野連に事前説明し、了解を得る。
3.高校生へのスカウトに関して、プロとアマの健全な関係を害する行為や、その恐れがある場合、双方の組織が事実関係を調べ、是正措置を講じ、それぞれが当事者や球団、野球部を指導、処置する。行為の内容によっては処分を行う。

 この覚書調印の3日後に川島コミッショナーは退任した。

 これ以降、プロ球界とアマ球界は様々な問題について、その都度協議する習慣ができた。2013年の学生野球資格回復制度の実施なども、2004年の覚書がなければあり得なかっただろう。

 脇村氏の英断が、プロアマの雪解けを大きく推進したのだ。

 この歴史的な出来事に関わった人物のうち、川島コミッショナー(故人)は2006年、古田元選手会会長は2015年に野球殿堂入りしている。高野連の脇村元会長だけが殿堂入りしていなかったが、その功績を考えると、今回の殿堂入りは、むしろ遅かったと言えるのかもしれない。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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