映画を見て久々に泣いた。体を震わせ、さめざめと咽び泣いた。
巷では、意識的に涙を流し、副交感神経を促してリラックスする「涙活」なんていうのがはやっているらしい。ただ映画を見るだけで、無意識のうちに泣ける私は、なんて健全なんだ。
私を咽び泣かせた映画とは『クリード 炎の宿敵』(現在公開中 スティーブン・ケイプル・Jr監督)。
『ロッキー』でも泣かなかったこの私が、リングの外でロッキー・バルボアが吐く一言で、完全にノックアウトされた。
前作『クリード』は個人的に面白く見たが、まさか今作では泣かされるなんて。
今作は「親子」の物語であり、「継承」についての物語でもあった。
アメリカ建国200周年という記念すべき1976年にアメリカンドリームの熱気に包まれて誕生したヒーロー「ロッキー」。
映画の中に生きる主人公を演じてきたひとりの俳優の「継承」について。
親子という「継承」について。
ここ立て続けの先輩たちの訃報にも、ふとその二文字を重ねてみる私。
ともあれ、新作映画は劇場で見て楽しんだもん勝ち。
実際、ボクシングにさほど興味などない私が、ビル・コンティのあのテーマ曲が脳内再生されると、なぜかファイティングポーズをとりながら無謀なトレーニングに励みたくもなるから、映画の影響力って本当に不思議。
真冬のフィラデルフィアの街角、焚き火を燃やすドラム缶を囲む輩とフィリーサウンドを口ずさみ、ロッキーステップよろしく階段を駆け上がったり、生卵を飲んだり、フィラデルフィア名物のフィリー・チーズ・ステーキというスキヤキ肉のようなものが挟まった禁断のハイカロリーなサンドを食べたくもなるのだ。
▽太平洋スキヤキ戦争
海外で「スキヤキ」を前に思い出すのは、坂本九さんの大ヒット曲「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」。
海外に渡ったあの歌がなぜ「SUKIYAKI」というのか。
その理由は諸説あるようだが、あの曲を持ち帰った英国のプロデューサーが「KYU・SAKAMOTO」とSUKIYAKIという音の響きがなんとなく似ているからという理由を聞いたとき、なるほどそれは面白い感覚だと思った。
言葉にしてみるとちょっとオリエンタルで楽しい響きの「SUKIYAKI」。
「SUKIYUMMY」(スキヤキとYUMMY=美味しい=をかけた)という造語まである。
アメリカでスキヤキを作るのは大変だと聞いたことがある。
理由は牛肉を薄切りで売っていないから。
確かに、あんなに薄く丁寧にスライスされた霜降り肉など見たことがない。
さらに薄さが求められる「しゃぶしゃぶ」然り。
おそらく彼の国には「薄切り肉」という概念がなかったのだろう。
しかも、調理前の具材がテーブルに並べられ、たったひとつの鍋を大勢で囲み、さらにはそれを調理しながら食べる料理というのは、欧米人から見れば異文化そのものなのだろう。
洋画のスキヤキを食べる描写はゲイシャとセットだったりする。
『MA★A★S★H(マッシュ)』(1970年ロバート・アルトマン監督)は、朝鮮戦争時代の移動米軍野戦病院キャンプでの医師たちの日常を狂気と笑いで徹底風刺したブラックコメディだ。
在留する朝鮮半島から日本までヘリコを飛ばし、ゴルフと芸者遊びにやってくる医師たちが、料亭でゲイシャ(芸者)にスキヤキを食べさせてもらっている場面がある。
私の想像だが、第二次大戦後に米軍が体験したスキヤキは、摩訶不思議な食べ物だったのではないだろうか。
目の前に置かれる小さな鉄鍋とそれを温める棒炭。
そこへ、ビーフやベジタブルを入れてザラメとソイソースでゲイシャが調理するそれ。美しいキモノを纏ったゲイシャが焼かれた肉を器用に箸で客人の口まで運んでくれる。
これはつまり「ノー・ハンズ・レストラン」、王様気分が味わえる不思議なレストランなのである。
BBQは、日本では単なる野外焼き肉のことだが、本場アメリカでは専門の肉焼き料理人が調理するのが当たり前だという。
それだからか食事の席で調理する日本のスキヤキという料理は相当奇妙に映るようだ。しかも、綺麗なゲイシャが隣でそれを食べさせてくれるのだから、最高の“おもてなし”料理ではないだろうか。
それにしても、不衛生だといって口にしない生卵を、米兵相手にいったいどうやって口にさせたのだろうか。
現在でも沖縄のスキヤキは、煮詰めた牛肉と野菜の上に、生卵ではなく目玉焼が乗っかっていたりする。
那覇市・辻にある「ジャッキーステーキハウス」には、スキヤキやチャプスイ(肉野菜炒め煮みたいなアメリカ式中華料理)といった、当時からある米兵相手のメニューがいまだに健在。
私にとって、スキヤキはどこかオリエンタルな雰囲気が似合う、ハレの日のご馳走であり、滋養をつけたいときに食べる貴重な食べ物なのだ。
元旦の夜、婚家では決まってスキヤキを囲む。
これが私の正月の楽しみで、家族水入らず、肉や白滝投入のタイミングに余念がなく、あっという間に平らげ、〆はうどんになる。
スキヤキの流儀をあげれば日本全国、それぞれの家の数ほどあるだろう。
西は「肉を焼く」鍋だというし、東は「肉を焼いて煮る」という。
入れる具材の種類も様々だったりする。
麩が好きな私は、麩の取り合いになったりすると、なんだか嬉しくなってしまう。
新年早々家族で囲むスキヤキはなんとも平和である。
ビールを飲みながら、お腹いっぱい。ちょいとほろ酔い。
炬燵の猫みたく丸まってそのままうたた寝したいくらい、しあわせな気分。
▽スキヤキの名店を訪ねる
新年のある昼下がり、新橋の名店へ「のら猫万華鏡」担当編集者と念願のスキヤキを食べに行った。
『今朝』という名店の歴史は古い。
明治13年(1880年)というから、130年以上続く老舗すき焼専門店。
五代目当主の藤森朗さん。
ドイツ皇帝を思わせる立派なカイゼル髭と物腰。時代を超えて老舗の味を現代に継承していく「スキヤキ・マイスター」な佇まいが印象的。
実は、松坂牛の「手切り」にこだわった名店だと初めて知った。
機械ではなく「手切り」にこだわるのは、包丁で「手切り」することで、肉の断面にギザギザの切り込みが入り、そこへ「ワリシタ」がうまく絡み合いとても美味しくなるからだそうだ。それはかなりそそられる。
そんな老舗名店には多くの著名人も足を運んだ。
『スキヤキ』のヒットで世界を席巻した坂本九さん、永井荷風、そして喜劇俳優・古川ロッパ。
ロッパが愛したスキヤキ、東京でも数ある老舗名店の中でも特に「今朝」がお気に入りで、古川緑波著『ロッパ食談』に「今朝」の記述がちゃんと書かれている。スキヤキ愛に溢れた一編は古き良き東京の風情も読み取れて興味深くとても面白い。
「今朝」はその昔、大正の軍事景気にのって大繁盛した頃は大勢の「姐さん」(と呼ばれる仲居さん)を住み込みで抱えていたそうで、髪結いさんも常駐していたそうだ。今朝名物と言われた黄八丈に黒襟のおきゃんな姐さん。
銀座・新橋という土地柄、料亭や芸者さんも多かっただろう。
出前も行っていたそうで、花街界隈で「今朝」のスキヤキは大人気だった。
その後、太平洋戦争が勃発。
東京大空襲でも当時の建物は奇跡的に建ち残ったが、空襲の延焼防止のため、終戦を前にやむを得ず取り壊されたというのだから、戦争というやつは本当にやるせなくなる。
戦後、闇市で賑わう新橋界隈。
闇雲な時代、不法占拠された土地を取り戻すのに10年余りかかったが、昭和39年のオリンピック景気に乗って現在の新橋にビルを建設。
そんなこんな明治、大正、昭和と激動の時代をくぐってきた「今朝」に潜入!
和洋折衷なアプローチ。
黒毛牛と葡萄の大胆な壁画に導かれていざ2階へ。
掘り炬燵の和室には、侘び寂びを感じさせる掛け軸と生花。
早速、スキヤキを注文。
「ランチのお肉も手切りなんですか?」と驚く私。
「もちろんです。当店のお肉はすべて手切りでご用意させていただいております」着物姿の仲居さんがにこやかに答える。
いよいよスキヤキの登場。
綺麗に切り削がれた牛肉。歴代変わらぬ味のワリシタに昆布出汁。
艶やかな白葱や春菊たち。
仲居さんが丁寧に焼き方など説明くださると、あとは自分で焼き焼き。
スキヤキ談議に花が咲き、肉のお代わりをし、とにかくパクパクよく食べた。
こんなによく食べる私を初めて見たと、担当編集者も驚くほど。
美味しい。美味しい。
なんども言葉にしながら口に運ぶ。
スキヤキは人を幸せにしてくれる。
焼こうか煮ようが、本当にどちらでもいい。
純日本和室で、ジュージューと音を立てて囲むスキヤキ。
「太平洋スキヤキ戦争」あらため「太平洋スキヤキ平和宣言」。
スキヤキに特別な思い入れがあるひとも、そうでないひとも、生卵が苦手なひとも、ひとびとをしあわせにするスキヤキ。
そういえば「上を向いて歩こう」の歌詞で、冬の日はイメージされない。
映画版『上を向いて歩こう』(1962年 舛田利雄監督)のエンディング挿入歌として、唯一、思い出される冬。
映画は、高度成長期、オリンピック景気に乗る若者の群像劇だが、消えゆく昭和の風景とともに、エンディングで国立競技場を背景にこの歌を歌う若者たちと時代の継承を思わせるカットバックの映像が、希望と終焉が混在していて、今見るとなかなか胸を衝く。
そもそも「上を向いて歩こう」は、本当に涙がこぼれないよう、悲しみをこらえるために上を向いて歩く歌だと私は思っている。
泣きたくなる夜、私は、あの月影に、スキヤキを囲んだしあわせな日々のことを思い出す。
涙溢れる感動の映画を見るのもいい。
悲しみを吹き飛ばすために、サンドバッグ相手にガスガスやるのもいい。
泣いていられぬ時もある。そんな時、涙がこぼれないよう、上を向いて歩くのだ。
大好きな人と囲んだスキヤキを思い出しながら。