ドイツの文豪ゲーテ:18世紀「疾風怒涛時代」の<知の巨人> どんな時代もヒューマニズムが政治・学問・芸術の原点

ゲーテ像(フランクフルト市、現在)

Wandrers Nachtlied
J.W.von Goethe
Über allen Gipfeln
Ist Ruh,
In allen Wipfeln

Spürest du
Kaum einen Hauch;
Die Vögelein schweigen im Walde
Warte nur, balde
Ruhest du auch.

旅人の夜の歌
         ヨハン・W/・ゲーテ
峰はみな
しずもり
梢に

風の
そよぎなく
小鳥は森にふかく黙(もだ)す
待てしばし やがて
おまえも憩えよう
(「ドイツ名詩選」(岩波文庫))

<知の巨人>ゲーテとその生涯

私は、文豪ヨハン・ウルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)を真正面から論じ得る自信はないが、学生時代からその高邁な知性と幅広い教養にはあこがれてきた。そこで私のささやかな「ゲーテ論」を書いてみたい。いち文学愛好家の「独り言」であり、「天才論」である。

ゲーテは、ドイツの詩人、小説家、劇作家、自然科学者、美術研究家、またワイ―マール王国の要職にあった政治家でもあった。何とも幅広い活躍が輝くが(天才たるゆえんだが)、何にもましてヒューマニストであった。日本の江戸時代中期にあたる1749年8月28日、大都市フランクフルト・アン・マインの名家に生まれ、1832年3月22日、ワイマールで死亡した。1782年、皇帝ヨーゼフ2世により貴族(男爵)に列せられている。

83年に及ぶゲーテの生涯は、しばしば一つの時期概念として「ゲーテ時代」と呼ばれる。

「疾風怒濤(Sturm und Drang、シュトウルム・ウント・ドラング)」の時代である。それは政治的、経済的、社会的、文化的にかつてない激動の時代であった。ドイツが30年戦争(1618~48)の荒廃からようやく立ち直り、封建的貴族階級が徐々に衰退していく過程で裕福な市民階層が台頭してくるリベラルな人間中心主義の時代であった。

その際、市民階級出身の有能な青年たちがより所としたのは、何よりも学問的な知識・教養であり、ゲーテも伝統的な宗教教育と厳格できちょうめんな父親の家庭教育により、幼少時からラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、イタリア語、英語に至るまで修得した。驚くべき語学の才である。豊かな素質と恵まれた生活環境のおかげで古今東西の人文的教養を身につけることができた(ゲーテには「西東詩集」がある)。

父ヨハン・カスパルは若き日に、イタリアで法律学を学んだ職掌のない帝室顧問官であり、陽気な性質の母カタリナ・エリザベートはフランクフルト市長ヨハン・ウルフガング・テクストールの長女であった。

ゲーテの生家(フランクフルト市、現在)

詩人の4期の発展

詩人ゲーテの人間的及び精神的発展は4期に大別することができる、とされる。

・第1期は出生からライプチヒ遊学(1765~68)と1770年のシュトラスブルク(現フランス領シュトラスブール)遊学中における哲学者ヘルダーとの出会いを経て75年秋のワイマール移住まで。
・第2期はワイマール公国のカール・アウグスト公のもとにおける多忙な政務及びシュタイン夫人との恋愛の10年間。
・第3期はイタリア旅行(1786~88)を過渡期として帰国から盟友・文学者シラーの死(1805)まで。
・第4期はそれ以後のエッカーマンの秘書時代を含む晩年である。

ドイツ文学史上、ゲーテが文学活動を開始した時期は既に記したように「シュツルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」と呼ばれる。だが、シェークスピアを称揚した友人ヘルダーがその理論的指導者であったのに対し、ゲーテは抒情詩の面で「5月の歌」をはじめとする「ゼーゼンハイム小曲」、戯曲の面で「ゼッツ・フォン・ベルリヒンゲン」、小説の面で書簡体文学「若きウェルテルの悩み」によって真に文学革命的な新生面を開いた。

万能の才人

ゲーテの文学世界の特徴は、<自然><象徴><理念><活動><愛><悪魔的(デモーニッシュ)なもの>などという言葉によって要約される。彼にとって自然は青年時代から<神性の生きた衣>(『ファウスト』第1部)であり、森羅万象ことごとく<神性の内的生命>を象徴的に暗示するものであった。彼の詩作は、自然の中に神性の声を聞き取り、象徴として把握された事物の隠れた意味を探りだすことに他ならなかった。この意味で彼の文学作品は深く宗教的な意味を持っていた。そのうえ、神性が永遠の理念に従って神秘的生命の営みを続けているように、人間には<理念>としての芸術的・道徳的理想を<活動>によって実現すべき使命が与えられている。

しかも、その活動が個人及び社会に役立つためには<愛>を持っていなければならなかった。その必要は、自然や歴史の中の<デモーニッシュ>なもの、即ち完全に神的でも悪魔的でもない無気味な非合理的力の作用が絶えず感じられるだけに一層切実であった。ゲーテの抒情詩はこうした必然的に<象徴>的自然詩ないし体験詩となり、彼の小説や戯曲の作中人物たちもみな、詩人同様それぞれの仕方でデモーニッシュなものとの戦いを経験しなければならなかった。

膨大な美術研究・自然科学の論文

文学作品や自叙伝的著作の他、ゲーテには厖大な量の美術研究論文と自然科学論文がある。それらは翻訳ではごく一部しか知られていないが、思想家としてのゲーテを理解するためには本来最も重要なものである。とりわけ顎間骨(がっかんこつ)、植物の変態、動物の原型、色彩の根源現象などに関するゲーテの研究や思想は、デカルト、ニュートン以来の数学的、技術的、機械論的近代自然科学とは異なる汎知学的ないしヘルメス思想的自然考察の系列に属し、現代の細分化された科学技術の行き詰まりとともに、その基本的価値が見直されている。

ゲーテが世界文学に与えた影響は、体験詩の普及、ウェルテル的モチーフの流行、「ウィルヘルム・マイスター」による教養小説的伝統の確立、ファウスト的理想主義の展開など多方面に及び、現代においては彼の全作品の根底に流れるヒューマニズムが諸民族、特にドイツ統一の精神融和に大きな役割を果たした。
 ゲーテの「ことば」のほんの一部を記してみよう。
「若き日の願いは老いてのち豊かにみたされる」(「詩と真実」)。

文豪ゲーテのイタリアへの憧れは強烈であった。
「この地には全世界が結びついている。私はこのローマに足を踏み入れたときから、第二の誕生が、真の再生が始まるのだ」(「イタリア紀行」)

ゲーテの宿泊したイタリア・ボーツェンの宿屋の窓に書きつけてあったフランス語の風刺詩。(同上)。
Comme les pêches et les mélons
Sont pour la bouche d’un baron,
Ainsi les verges et les batons,
Sont pour les fous, dit Salomon.
(桃とメロンは
男爵(バロン)の口に
鞭は馬鹿にと
仰(おお)すソロモン

「すべて巨大なものは、崇高であると同時に理解しやすいという、一種独特な印象を与えるものである」(同上)

いかなる時代でもヒューマニズムが政治・学問・芸術の原点である。

(つづく)

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