旧ソ連の北方領土占領、米国が軍事支援していた…歴史の定説を覆す発見

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古釜布の旧集落に建つ、ソ連の国後島占領記念碑(「Wikipedia」より)

「平和条約へ向けて加速的に」と意気込む安倍晋三首相は21日から訪露する。だが実は北方領土問題において、四島をめぐる現代史が国民には知らされていない。

 2017年12月30日付北海道新聞に貴重な記事が載った。タイトルは『ソ連四島占領 米が援助』。ロシア史の大御所、和田春樹東大名誉教授が「北方四島を含む旧ソ連軍の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本国内ではほとんど知られておらず、発見と言える。四島占領はソ連が勝手に行ったのではなく、米ソをリーダーとする連合国の作戦として行われたということを示している」と談話を寄せた記事を以下に引用する。

「1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による、北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。(中略)振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは『プロジェクト・フラ』と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。米国は45年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月にはソ連兵約1万2000人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入された。8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日までに完了した」

 日本のポツダム宣言受諾にもかかわらず、ソ連は日ソ中立条約を破棄し千島列島を南下、米軍がいないのを見計らって択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻し日本人を追い出したという「ソ連軍独断の占領」定説を覆す大ニュースは根室振興局が取り組む北方領土遺産発掘・継承事業の成果。同局の谷内紀夫前副局長は、ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べたイーゴリ・サマリン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の論文などを発見した。

●都合がよかった「ソ連の独断占領」

 千島歯舞諸島居住者連盟の河田弘登志副理事長は「千島でソ連と戦った元日本兵は、アメリカの船を砲撃しようとしたらソ連の荷物を積んでいたので撃てなかった、と話していた」をあり得ることと見る。撃てなかったのは日ソ中立条約があったからだろう。同連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かない。そうしたことからも、米国のソ連軍支援は十分考えられる事実では」と話す。

 だが、同連盟の宮谷内亮一根室支部長が「驚いた。北方領土のソ連の占領にかかわっていたのならアメリカにも責任があるのでは」と話すように、初耳という元島民が多い。

 日本政府が「米軍の援助」を知らないはずはないが、冷戦下、米国の同盟国として米国に都合の悪い事実は表に出されなかったのだろう。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「当時は連合国の一員、おかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でもソ連軍の四島の占領にアメリカがかかわったという歴史を出さないほうがいい、ということになったのでしょう」と推測する。

●あとから出た「北方領土」という言葉

 根釧漁船保険組合元専務理事の足立(あしだて)義明氏(80)は根室青年会議所で活躍していた頃、北方領土問題を研究し講演もした。「決してソ連が独断で決めて占領したのではなく、アメリカが支援していたはずということも話しました」と語る。「ソ連は釧路から留萌を結んだ線から以北をよこせと言っていた。安藤さん(北方領土返還運動の父と呼ばれた安藤石典根室町長)がソ連に対してではなくマッカーサーに占領軍の管理下に置いてほしいということを求めた経緯からも、占領時にも米軍が加担していたとみるほうが自然」とする。45年12月、安藤氏は占領軍のマッカーサー連合国最高司令官に対して、ソ連の不法占拠を訴え、国後、択捉、色丹、歯舞諸島を米国の管理下に置くことを求める直訴状を送った。足立氏は「尖閣諸島とか竹島とか言えばすぐわかるが、北方領土とか北方四島なんて表現して島の名を言わないから国民はわからない。返還運動が国民的に盛り上がらなかったひとつの原因」と指摘する。

 日本は戦後すぐにソ連に「四島を返せ」と主張したわけではない。「北方領土」という言葉も冷戦下、米国の同盟国として「ソ連敵視」の国論を煽るために後年、政府がつくり出したのだ。

●「2島返還」でちょうちん行列

 元根室市総務部長の平山芳夫さん(90)は根室半島の歯舞村(現・根室市歯舞)の出身。戦前から村役場に就職し、56年の日ソ共同宣言締結時は20代。「提灯行列となり行燈を担いで納沙布まで行進した」。2島の返還だけでそんなに喜びに沸いたのだろうか。平山氏は語る。

「歯舞諸島は歯舞村の管轄。奪われていた豊富な漁業区域も村に戻ってくることが大きかった。当時、根室には国後や択捉の人はあまり戻っていなかった。住民大会も色丹と歯舞が還れば、という雰囲気。四島全部返せ、では平和条約はないと思っていました。しかし、すぐに国後や択捉出身の人の反発が強まっていったのです」

 平山氏は「もともとは『島を返せ』ではなく『島よ、還れ』だった。いつしか『返せ』という言い方になりました」と回顧する。強い言い回しに変わるのも対米追従が強まってからだ。
(文=粟野仁雄/ジャーナリスト)