長野が選んだ背番号「5」 町田、栗原ら長距離砲や巧打者が紡いできた系譜

広島で「5」をつける長野久義【写真:Getty Images】

赤ヘルVを支えたシェーンやギャレット、日本球界が誇る名三塁コーチも

 巨人にFA移籍した丸佳浩外野手の人的補償として広島入りした長野久義外野手。23日にマツダスタジアムで入団会見を行い、正式に広島の支配下登録選手としてNPBから公示された。年始早々に起きた、巨人の2012年からのリーグ3連覇にも貢献した生え抜きの安打製造機のプロテクト漏れと移籍劇は世間に衝撃を与えた。

 長野の新天地での背番号は「5」に決まった。巨人時代の7番と同じ1桁の背番号となったが、これまでカープの5番は長距離砲、代打の切り札、期待の助っ人ら多彩な顔ぶれが背負ってきた背番号である。そこで、これまで5番を背負った主なカープ選手を振り返ってみたい。

○国貞泰汎(1970-74年)
1970年に後に球団史上初のリーグ優勝、日本一に導いた古葉竹識との交換トレードで広島入り。71年に二塁手部門のベストナインに選ばれた。バットを短く持ち、しゃがみ込んで流し打ちをする打撃は職人芸と言われた。72年には打率.293を記録。75年に太平洋クラブ(西武)に移籍した。

○シェーン(1975-76年)
1975年にカージナルスから加入し、同年に打率.281、13本塁打、56打点。ホプキンス、山本浩二、衣笠祥雄と共に赤ヘル打線を引っ張り、リーグ初優勝に貢献した。76年は打率.307、20本塁打、62打点を記録したものの、同年で退団。ロイヤルズ時代の1972年にはMLBオールスター戦に選出されている。

○ギャレット(1977-79年)
1977年にパドレス傘下から広島入り。同年に35本塁打、78年に40本塁打、79年に27本塁打を記録するホームラン打者として活躍し、79年のリーグ優勝、日本一に貢献した。1978年オールスター戦では1試合3発を放ってMVPを獲得。

○定岡徹久(1983-87年)
元巨人の定岡正二の弟。1982年ドラフト3位で広島入り。中軸として期待されたが、3年間で36試合出場、3安打止まり。88年途中に日本ハムへ金銭トレードで移籍し、引退後はタレントとしても活動した。

1992年からは町田が13年、2006年から栗原が10年保持

○高代延博(1989年)
日本ハムでは1980年にベストナインを獲得。88年オフに交換トレードで広島に移籍した。89年は24試合出場にとどまり、同年限りで現役引退。引退後は中日、侍ジャパン日本代表、オリックス、阪神で三塁ベースコーチとして活躍した。19年は阪神2軍チーフコーチ。

○水上善雄(1990年)
1990年に高橋慶彦らとの交換トレードで広島入り。同年に76試合出場、打率.194、5本塁打、13打点に終わり、91年に金銭トレードでダイエーへ移籍した。引退後は日本ハム、ソフトバンクでコーチ。19年はソフトバンク1軍内野守備走塁コーチ。

○町田公二郎(1992-2004年)
1991年ドラフト1位で専大から広島入り。左の浅井樹と共に代打の切り札として活躍した。積極的な打撃スタイルで代打での通算成績は打率.227、90安打、20本塁打、71打点。プロ通算955試合出場、打率.251、85本塁打、272打点。現役引退後は阪神、広島でコーチを務め、15年から三菱重工広島硬式野球部で監督を務めている。

○栗原健太(2006-15年)
1999年ドラフト3位で日大山形高から広島入り。06年に背番号50から変更した。右の長距離砲として活躍し、07、08、11年に全144試合出場。06年から4年連続で20本塁打以上、07年から2年連続で打率3割越えをマークした。度重なる故障に苦しんだものの、努力の人として知られ、ファンから愛された。15年オフに退団し、楽天へ移籍した。プロ通算1026試合出場、打率.293、153本塁打、586打点。17年から楽天でコーチを務め、19年は1軍打撃コーチ。

 巨人1年目の2010年から背番号7だった長野。真っ赤のユニホームに身を包み、背番号5をどのような色に染め上げるのか注目したい。(Full-Count編集部)

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