『熱帯』森見登美彦著 本を巡る人間の営みへの愛と共感

 図書館や書店に居て、並んでいる文学書をじっと眺めているうちに、朦朧としてくることがある。一冊一冊の中に、書き手の経験と知性が練り上げた世界が表現されているのだ。情熱的な恋愛、邪悪な心をうつすような殺人、南の島の大冒険…。

 人間は古来、信じられないほどたくさんの物語を生みだしてきた。そしてそれを読んできた。物語を生む側の創造力と、それを受け取る側の想像力。本を巡る人間の営みを思うと、頭が痺れたようになる。

 森見登美彦の小説『熱帯』は、そうした膨大な数の物語を作ってきた人々と読んできた人々の双方への愛と共感に満ちている。だからこそ、彼の仕掛けた物語の森の中を思う存分さまよい、酔いしれてほしい。

 物語は入れ子構造になっている。『千一夜物語』のように。作家の「森見登美彦」が最初の語り手なのだ。

 次作が書けずに悩んでいる「森見登美彦」は最近、『千一夜物語』を読んでいる。女性不信に陥ったシャハリヤール王に殺されないように、シャハラザードが夜ごと物語を紡ぐ『千一夜物語』は、登場人物もまた物語を語り始めたりする。それだけではない。『千一夜物語』には、偽写本や恣意的な翻訳、異本もある。成立史だけをみても不思議で、「謎の本」の代表のような存在だ。

 作中の森見が妻に『千一夜物語』の謎について語っているうちに、昔読んだ『熱帯』という本をふと思い出す。京都に暮らしていた学生時代、古書店で見つけたその本は、佐山尚一という人物が書いた小説だ。

 ある若者が南洋の孤島の浜辺に流れ着くところから始まる。若者は記憶を失っていて、自分が誰で、なぜここにいるのか分からない。そのうちに、佐山尚一という男に出会う。『熱帯』を書いた作家と同じ名前の人物が、その小説の中に出てくるのだ。森見はしかし、半分ぐらいまで読んだところで、この本をなくしてしまった。また買おうと思っても、2度と見つけることはなかった。

 その話を妻にしてまもなく、森見は友人に誘われて「沈黙読書会」に出席する。謎の本について語るこの会で、森見は『熱帯』を持っている女性に出会う。彼女が森見に言う。「この本を最後まで読んだ人間はいないんです」

 かくして語り手は、この女性「白石さん」に移る。その後も転々と語り手を変えながら『熱帯』という本の謎を追う。舞台も東京から京都に移り、やがて『熱帯』の物語の中へ。南洋の孤島で記憶をなくした男は誰で、何のためにここへ来たのか。そしてなぜ『熱帯』という小説が生まれたのか―。

 異界への入り口があちこちに隠されていて、ハッと気づくと不思議な世界にずぶずぶと足を踏み入れている。

 本書は『千一夜物語』はもちろん、『ロビンソン・クルーソー』や『海底二万里』へのオマージュとしても読める。そして、小説とは何かという謎を追う物語でもあると気付く。

(文藝春秋 1700円+税)=田村文

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