『昨日がなければ明日もない』宮部みゆき著 非力な同伴者、悲しみに寄り添う

 宮部みゆきによる現代ミステリー、杉村三郎シリーズ第5弾。前作の『希望荘』で探偵事務所を開いた杉村が、プロとして本格的に仕事を始める。

 杉村がなぜ探偵になったのか。なぜ離婚し、最愛の娘と離れて暮らすことになったのかを知りたい方はぜひ『誰か Somebody』『名もなき毒』『ペテロの葬列』の3作を読んでいただきたい。いずれにしても、つらい過去を経て、今があるのだ。本書のタイトル通り、そうした過去がなければ、杉村は事件の関係者たちに寄り添う柔らかな心と、真相に対峙する強さを併せ持つ探偵にはなれなかっただろう。

 犯人に説教するようなタイプの探偵ではない。なぜ罪を犯すに至ったのか、その経緯や理由を聞きながら泣いてしまうような、少々軟弱な男である。そして、おいしいホットサンドを一緒に食べて雑談し、自首に付き合うようなお人好しでもある。

 本書には三つの中編が収められている。冒頭の「絶対零度」が最も長い。品のいい婦人が杉村の事務所を訪れる場面から始まる。

 婦人の娘が自殺未遂をした。幸い命に別状はなく、救急病院からメンタルクリニックに移ったのだが、以来会えなくなってしまった。娘の夫が、自殺企図の原因は母親との関係にあるので、絶縁も考えていると言っている。納得できない。娘に会いたい―。

 婦人から杉村が少しずつ事情を聴きだす。“毒親”の物語かなと思いきや、予想は何度も裏切られ、どす黒い犯罪があぶりだされてゆく。

 2話目の「華燭」は、結婚式に絡むトリックがミソの一編。過酷な背景を抱えた女性たちが登場するが、それでも自分の力でしたたかに生き抜こうとする姿が小気味いい。

 最後の一編が表題作で、かなりはた迷惑な母と娘が登場する。見栄、金銭欲、嫉妬、悪意…。誰もが身に覚えがある負の感情とどのように付き合っていくのかがその人の人格を決めるのだろうが、母親はそれらを放置したまま大人になっている。そして彼女に過去をめちゃくちゃにされたと感じた人が、その被害感情から抜け出せずに、悲劇が起きる。

 3編に共通しているのは、女性たちが生きていく中でぶつかる困難を描いている点だろう。特に最初の「絶対零度」は、最終的に杉村が暴くことになる犯罪の重苦しさ、悲惨さに胸が塞がれ、しばし呆然となった。

 似たような犯罪は実際に起きている。作家は主人公の杉村と共に、そうした事件の被害女性とその近くにいる人たちに心を寄せて、人生の悲しみを描いた。

 読んでいて、杉村のキャラクターに救われる。彼は説教をしないだけでなく、新たな事件を食い止めることもできない。非力な同伴者なのである。だからこそ、女性たちの哀歓が胸に迫る。

(文藝春秋1650円+税)=田村文

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