<奥羽の義 戊辰150年>(36)石巻での決戦 寸前で回避

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あわや戊辰戦争の最終決戦の地になりかけた石巻市の折浜。150年後の今、東日本大震災の津波によって多くの人が高台へ移り、浜辺はひっそりしている
元額兵隊士の荒井宣行が箱館での戦いを文章と絵で記録した「蝦夷錦」。仙台藩の降伏方針に従わず、藩校養賢堂から出奔する場面が描かれている(函館市中央図書館蔵)

◎第6部 仙台藩降伏/榎本艦隊出航

 1868(明治元)年旧暦9月15日の仙台藩降伏後、徹底抗戦を主張して石巻近辺に停泊する旧幕臣榎本武揚の艦隊に合流を図る仙台藩士が相次いだ。星恂太郎(じゅんたろう)率いる洋式銃部隊「額兵隊」もその一つだ。

 額兵隊は藩内で最も進んだ近代装備を有したが、一度も出陣せずに敗戦を迎えた。弾薬調達が間に合わなかったとも、藩が出し惜しんだとも言われる。星らは「このまま終われるか」と独断で宿舎の藩校養賢堂から出奔した。祝砲を撃ち、仙台城に向かい敬礼して出陣。追い掛けた藩主伊達慶邦の制止を振り切り、250人が榎本と合流した。

 そうした援軍も得て、榎本艦隊と旧幕軍4300人は石巻の旧北上川東側で臨戦態勢を敷いた。牧山(現在の牧山市民の森)西側に額兵隊、伊原津に土方歳三率いる新選組、渡波に旧幕軍の伝習隊と彰義隊を布陣し、流留にも兵を置いた。「ここを最後の決戦地として討ち死にするのみ」と気勢を上げる者もいた。

 新政府も石巻へ追討軍2400人を差し向けた。このままでは両軍が衝突し、石巻が戦場と化してしまう。焦った仙台藩は早く艦隊に出て行ってもらおうと考えた。協力したのが、石巻で榎本らが寄宿先とした豪商の毛利屋理兵衛だ。

 理兵衛は財政が疲弊した仙台藩に代わってコメ1000俵をはじめ、計48品目の膨大な量の物資を艦隊に供給した。榎本らは感激し「仙台藩の恩は忘れない」と述べた。十分な物資を得た艦隊は10月12日、選抜した兵2000人を乗せて折浜(おりのはま)から蝦夷地(北海道)へ向けて旅立った。

 新政府側の津藩の兵が折浜に攻め入ったのは、その翌日。既にもぬけの殻だった。石巻はぎりぎりで戦火を免れた。もし両軍が衝突していたら、戊辰戦争の最後は箱館ではなく石巻だったかもしれない。

 元石巻市教育長で郷土史家の阿部和夫さん(80)=石巻市芸術文化振興財団理事長=は「決戦が行われれば、街が焦土と化した恐れもある。商人の無私の心意気が石巻を救った」と語る。 (文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

[毛利屋理兵衛]みそ、しょうゆ醸造で栄えた石巻の豪商「毛利屋」の第11代当主。仙台藩の米蔵の管理人も務めた。子孫の総七郎が私費を投じて収集した歴史民俗資料約10万点は「毛利コレクション」として国内外から高い評価を受けている。

[榎本艦隊への主な提供物資]酒1000樽、たくあん300樽、みそ、ごま油、梅干し各200樽、しょうゆ500樽、かつお節500貫目、鶏卵3万個、焼きパン100箱、薪(まき)5万本、ろうそく3万本、おわん3000人分、塗り箸1万人分、炭10万俵、竹ぼうき100本、上茶200斤