名古屋から嫁いだ先は、アフリカ最貧国

 ブルンジの数十年後見据え奮闘 平成元年生まれ、私のリアル

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 嫁いだ先は、生まれ育った名古屋から遠く離れたアフリカ中部のブルンジだった。電気や水道にも苦労する最貧国の一つ。8人兄弟で3つ年上の夫の実家は、粘土を乾燥させた日干しレンガでできていた。そんな国で、ドゥサベ友香(ともか)=旧姓坂野(ばんの)=さん(29)は2017年春、現地の人たちと輸出用のバッグ作りを始めた。

 夫リチャードさん(32)と出会ったのは、学生時代。11年、学校建設を支援するために訪れたのが、人生の転機になった。産業に乏しく慢性的な赤字を海外からの資金援助で穴埋めしているこの国を憂い、外貨を稼げる産業を自分でつくろうとずっと考えてきた。

 18年夏、1万5千円で初出荷した手作りのバッグは東京のデパートで3個全て売れ、思いは少しずつ形になり始めている。

 ▽何でも輸入に頼る年収3万円の国

 06年まで内戦が続いたブルンジは、15年にも反政府デモで多数の死傷者が出た。17年の1人当たりの国民総所得はわずか290ドル(約3万円)で、世界銀行がデータを得た国や地域では最下位。車や建築資材のほか、日用品まで外国に頼るため、輸入額は輸出額の7倍に上る。

 アフリカとの縁が始まったのは12歳の時だ。叔母が住む南アフリカを訪ね、別荘を持つ白人がいる一方、バラック小屋に住む黒人も多いという現実に衝撃を受けた。

 大きな格差が許せず、開発援助を志し、大学時代から時折、ボランティアでケニアなどに足を運んだ。大学院では開発経済学を専攻した。

 ブルンジは、11年に非政府組織(NGO)から活動の場を紹介され、知るようになった。

 平均寿命は短く、乳児死亡率も高い。「周辺国と比べてもあまりに貧しいと思った」。公用語はフランス語で、言葉の壁から英語圏の国に比べ援助に来る海外の団体が少なかった。だからこそ、ここで活動すると決めた。

ブルンジ北東部を訪れボランティアをする学生時代のドゥサベ友香さん

 かかわり始めると、輸入に頼りすぎるあまり、国内産業が育たないという悪循環に気づく。食べるのに精いっぱいの生活で、病気になっても病院にかかれない人や、大学を出ても仕事がなく、海外へ出稼ぎに行く人も多い。何か自分にできることはないかと考え続け、日本への雑貨販売を思い付いた。

 現地で商品になりそうなバッグやポーチ、コップなどの写真を撮っては日本のアフリカ雑貨店にメールをしたり、インターネットで売ったりと試行錯誤を繰り返した。

 ネットはブルンジでも少しずつ普及していた。情報通信技術の発展も、夢を後押しした。

 雑貨の売り上げで養豚をすれば現金収入になると思い、チャレンジしてみたが、思ったより餌代がかさみ、すぐ諦めた。

 その間に大学院を卒業した。結婚して、16年に日本から首都ブジュンブラに移住。長女マホロちゃん(2)も生まれた。

 ▽高級ブランドも使うヤシの葉の繊維

 「一から商品を開発しませんか」。メールを見た東京の雑貨店からの連絡を受け、輸出用のバッグ作りを現地の人と始めた。使うのはラフィアと呼ばれる乾燥したヤシの葉の繊維。丈夫で耐水性にも優れ、海外の高級ブランドでも使われている素材だ。

バッグの作り手たちと完成品をチェックするドゥサベ友香さん(右)

 ブルンジでは一部の地域で見られるラフィア。だが、街で売られるものは編み方が荒かったりデザインが悪かったりした。そのため、知り合いを頼りまずは腕の良い作り手を探した。アフリカっぽい民芸品のようにならないようデザインも磨いた。30代後半の女性をターゲットに、落ち着いたシンプルなデザインで、デパートでも売れるバッグを目指すことがコンセプトだ。

 メールに反応し、販売したアフリカ雑貨店「キチェコ」の星智子(ほし・ともこ)さん(44)の元には再販売の問い合わせがすぐにあった。

 「ラフィアは革のように使うほどなじみその人の色が出る素材。デザインを磨けばもっと売れる可能性はある」。星さんは将来性を感じている。

 友香さんは「ブルンジの人に、自分たちの商品も高い値段で売れると知ってほしかった」と裏にあった狙いを明かす。ドイツやベルギーの植民地だった時代の名残からか「自分たちは能力がない」と卑下する人たちを刺激したかったのだ。

 作り手の報酬や送料を引くと昨夏の売り上げで利益はなく「ビジネス化は夢のまた夢」と笑った。それでも今年は別の店から40個の注文を受けた。手応えはある。

 ▽苦労もあるけど「故郷」のために

 やりたいことが進み始め、「今はストレスなく楽しい」と話す友香さん。ただそこは日本とアフリカとの国際結婚。苦労も多かった。

 なかなか受け入れられなかったのが、親戚の中で資金力がある人にお金を頼るブルンジの文化だ。友香さんは今も日本の開発コンサルタント会社に籍を置き、収入がある。このため、移住後は義理の姉や弟の学費や医療費も工面した。トラブルで国を追われた叔父の生活費の面倒も見た。

 子育てを巡って同居していた義母と対立したこともあった。友香さん曰く「熱帯の国にもかかわらず、ブルンジでは赤ん坊を服や布でくるみたがる」。背景には肺炎で亡くなる子の多さがあるというが、逆に熱中症が心配になるほど。その場に夫がおらず、携帯電話越しに仲裁してもらった。同居を解消し、今は良好な関係だ。

 しかし暖かく濃密な親戚付き合いは魅力でもある。食べ物はおいしく、周辺の国に比べて誠実な人柄も大好きだ。だからこそもっとこの国に良くなってほしい。

 最近は「娘が生まれてからこの国の将来をより考えるようになった」。路上生活の親子の支援も始めた。路上で声をかけた6家族に約4千円相当のお金を貸し、商売をさせるシステム。いずれもひとり親で仕事がなく、子どもが物乞いをしていた。原資は日本で寄付を募った。

 6家族は野菜や古着などを販売し、16人の子ども全員が学校へ通えるまでに生活が向上した。共同で畑を借り、野菜の栽培も始めた。

 「この国を担う次の世代にいつか開発経済学を教えたい。自分の力で国をよくできると知ってほしいから」と友香さん。愛する「第二の故郷」のための活動はスタートしたばかり。数十年かけて貢献していくつもりだ。(共同=西村曜29歳)

ドゥサベ友香さんがブルンジの首都ブジュンブラで始めた店に陳列されるラフィアバッグ

 ▽取材を終えて

 ドゥサベ友香さんとは大学の同級生だった。ブルンジという国名も確か彼女から聞いて初めて知ったはずだ。地図を広げ、他のアフリカの国と比べ面積がやけに小さいと思った記憶がある。あれから約10年、彼女はずっとブルンジに携わってきた。私も国際関係を学び、彼女と同じ時期に西アフリカのトーゴという国にボランティアに行った。でもその後が続かず、学生時代の思い出の一つにして就職することにした。

 しかし彼女はそうしなかった。ボランティアがきっかけという入り口は一緒だが、卒業後もフェイスブックで絶えず活動の様子を発信。2015年の反政府デモの時は必死に現地の様子を訴えてもいた。

 12歳で感じた怒りをずっと持ち続け、1万キロ以上離れた国に一生をささげようとしている。彼女が取材中につぶやいた「生涯をかけてやるべきことがこの国にはいっぱいある」という言葉。「同い年だけど、全然違うな」。ちょっと悔しかった。(終わり)