死の恐怖、二度と 川崎の被爆者が戦争の悲惨さ語る

 核兵器の恐ろしさと戦争の悲惨さを知ってもらおうと、被爆者の体験を聞く人権講座が30日、川崎市幸区の幸市民館で開かれた。語り部となったのは県原爆被災者の会川崎支部長の山口淑子さん(86)=同市高津区。つきまとう死の恐怖を語り、過ちを繰り返さないよう説いた。

 1945年8月6日、13歳だった山口さんは広島の爆心地から1.3キロの自宅で被爆。一家5人は幸い無事だったが、「髪が抜け、学校を休んだきり亡くなる同級生がぽつぽつと。戦争が終わって死なずに済んだと思ったら、いつ死ぬかとおびえる毎日が始まった」。体調不良が続いた母は20年後、苦しみのあまり自ら命を絶った。

 平和を自分のこととして大切にしてほしいと願い、語り部を務めてきた。母親と参加した小学生の男児の「戦争のようなことになったら反対したい」という感想がうれしかった。

 質疑応答で語ったのは二つのエピソードだった。太平洋戦争に突入した41年12月、買い物客でにぎわう道ばたに1人の兵隊が倒れ込み、叫んだ。「また戦争に行くのは嫌だ!」。中国からの復員兵だった。山口さんは「戦地でどれだけひどいことをし、させられていたのか。でも、道行く人が気に留めることはなかった」。破局を迎える前に引き返す道はなかったか、と思いを巡らす。

 そして昨秋、やはり語り部を引き受けたときのことだ。聞いていた中年の男性が叫んだという。戦争になれば金もうけができるじゃないか-と。「いまの社会に不満があるのだろうが、恐ろしい考えだ」と山口さんは表情を曇らせた。

 反原発運動にも加わってきた山口さんは東京電力福島第1原発事故を目の当たりにし、「あれだけ危険だと言ってきたのに」と落胆を深めた。この日もミサイル迎撃システムの導入を巡るニュースを目にし、軍備を増強するばかりで核兵器禁止条約に参加しない日本政府に首をかしげる。

 「この国は過ちを繰り返し続けているのかもしれない。救いは子どもたちだが、こんな話ばかりでは生きるのが嫌になる」

親子連れを前に被爆体験を語る山口さん=川崎市幸区の幸市民館

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