パパボクサー「息子の難病、知ってほしい」 30すぎてリング復帰

対戦相手と攻め合う馬場裕一さん(左)=1月12日午後、東京都文京区・後楽園ホール

 息子がかかった難病のことを多くの人に知ってもらいたい―。病と闘う長男のため、30歳をすぎて再びリングへ戻ったプロボクサーがいる。馬場裕一さん(34)=東京都武蔵野市=は、長男琳輝(りんく)ちゃん(5)が発症した難病「ドラベ症候群」の啓発につなげようと昨年、約11年ぶりにリングへ復帰した。(共同通信=太田久史)

 ▽発作

 アスリートに憧れ18歳でボクシングを始めた。親の反対を押し切ってアルバイト代をためてジムに入会。練習に打ち込み、22歳で念願のプロデビュー戦を迎えたが敗北を喫し、挫折を味わった。夢への未練があったが、練習から足が遠のき、そのままリングを去った。

 その後、結婚して1女2男を授かり、第2子の琳輝ちゃんがけいれん発作を繰り返すドラベ症候群と分かる。生後3カ月で初めての発作が起き、診断が確定したのは1年以上たってからだった。

 「大丈夫だと思いたかったけど、どんどん症状が当てはまっていく。なんとも言えない気持ちだった」。昼夜問わず発熱などで起こる長い発作に苦しむ日々。治療法のない難病という現実を突き付けられた。

 体温が上がると発作が誘発されるのが特徴で、体調管理のため体温計が手放せない。汗をほとんどかけないため体温調節ができず、熱がこもりやすいので夏場は保冷剤を背負って過ごす。保育園や公園で遊ぶときも、休憩をはさみながらだ。現在は薬を5種類以上飲んでいるが、完全に発作を止めることはできない。

公園で遊ぶ馬場裕一さんと長男琳輝ちゃん。体温が上がり発作が起きないよう休憩しながら遊び、体温計を常に持ち歩く=1月6日午後、東京都武蔵野市

 2017年1月、保育園を早退した琳輝ちゃんが発作を起こし、自宅から救急車で運ばれた。自分も病院へ急ぐ途中、かつて所属したボクシングジムの前を通りがかった。自分が通わなくなった後、しばらくして閉鎖され「テナント募集」の看板がかかっていたはずの跡地に別の新しいジムができているのを偶然見つける。後日、チラシを持ち帰り、自動車整備士の仕事の合間を縫って、体を動かしに再び通い始めた。

 ▽決断

 「おまえ、本気でボクシングやらないのか」。半年ほどして、ジムの会長やトレーナーに聞かれた。かつて練習に明け暮れた日々と比べ、週1日程度という「中途半端さ」に自分も納得がいっていなかったが「息子の病気があるので難しい」と最初はためらっていた。「逆だろ。子どものためにやってやれよ」。会長やトレーナーの言葉。ずっと抱えていた息子の病気を治したいという思いに火が付いた。

 「有名人でもない自分のことはなかなか取り上げてもらえない。でもボクシングで勝ち進めば、病気に注目が集まり、もっと研究に力を入れてもらえるじゃないか」。琳輝ちゃんの発作が気がかりで職場への後ろめたさを感じながら続けていた整備士の仕事を辞め、父が営む塗装業を継ぐことを決意。ボクシングを本格的に再開することを決断した。

 17年11月にプロテストを受け直し、ライセンスを再取得。18年2月の復帰戦には敗れたが、5月にプロ初勝利、10月には2勝目を挙げた。

 ただ、復帰の苦労は想像以上だった。働きながら練習時間を確保するのは、自分だけでなく家族にも負担がかかる。琳輝ちゃんの発作でトレーニングを中断したり、練習試合をキャンセルしたりすることもたびたびだ。それでも啓発につなげたいという一心で続けてきた。

試合を控え、トレーニングに励む馬場裕一さん(左)=2018年12月30日、東京都武蔵野市

 ▽入り口

 難病患者や家族の置かれた状況を改善する上で「最も重要で、最も難しいのが病気の啓発だ」と日本難病・疾病団体協議会の森幸子代表理事は話す。

 厚生労働省の指定難病は計331あり、難病医療法に基づく医療費助成を受けている患者は18年3月末現在、89万2445人。助成を申請しなかったり、見落とされたりしている患者もいるほか、制度改正で一部の軽症者が助成対象から外れるなど「実際の数はもっと多い」(森さん)という。病気ごとの患者数はまちまちで、症状はおろか病名さえ一般に知られていないものも多い。森さんは、難病に対する偏見や誤解が、就労拒否や学校などでの受け入れ敬遠を招き社会参加が難しくなったり、病気であることを周囲に言えずに抱え込んでしまったりするなど患者や家族が孤立化してしまうケースが少なくないと分析する。

 森さんは「個々の病気の知識や理解が広がらなければ、社会の受け入れも広がらず、治療法や薬の開発を後押しする機運や人材の流れも生まれない」と指摘。馬場さんの取り組みについて「同じ病気の患者や家族だけでなく、難病に関わる人全体の励みになる。多くの人が難病について知ろう、調べてみようと思う入り口になってほしい」と話す。

 一方、ドラベ症候群の患者家族会が目下の最優先課題と位置付けるのが、けいれん発作を止める新薬の承認だ。

 現在は発作を止める効果のある薬は、緊急搬送先の病院で医師に投与してもらう必要がある。海外では同じ成分で、家庭や学校などで家族らが経口投与できる薬が発売され広く使われているが、日本では未承認だ。家族会の黒岩ルビー会長は「1秒でも早く発作を止めることが重要なのに、現状ではその手だてがない」と訴える。

 発作は数十分から数時間にわたって続くこともあり、長引けば長引くほど薬でも止まりにくくなる。脳へのダメージも大きくなり、急性脳症や後遺症のリスクが高まり、そのまま死亡する場合もある。

 家族会は15年11月に17万筆余りの署名を集め、厚労省に早期承認を要請。17年11月にようやく治験がスタートしたものの、0歳児の確定患者が少ないなどの事情が壁となって症例が思うように集まらず、承認のめどは立っていない。

 昨年11月には、会の4歳と6歳の患者が発作に伴う脳症などで相次いで亡くなった。黒岩さんは「薬が使えていれば、亡くならずに済んだのではという悔しさが消えない。子どもたちの命に直結する薬であると理解してもらいたい」と訴える。

 ▽保育園

 琳輝ちゃんは武蔵野市内の認可保育園に通う。入園当初はドラベ症候群との診断結果が出る前だったが、難病と判明した後も、てんかんの専門医を呼んで職員の研修を開くなど、琳輝ちゃんの発達に応じて手厚い体制で対応してくれた。馬場さんは「園にいるときが家より安心というぐらい信頼している」と笑う。

 多くのドラベ症候群の患者と同じく、琳輝ちゃんにも発達の遅れがあるが、園で子どもたちと接する中で行動やコミュニケーションの幅も広がったと感じている。「できるだけ普通の子と同じことをさせてやりたい。その気持ちをかなえてもらってきた」と話す。

 ▽未来

 1月12日。馬場さんは復帰後3勝目を目指し後楽園ホールのリングに上がった。昼前に東京都心で初雪を観測し、夕方からは小雨が降る中、会場には、琳輝ちゃんの通う園のパパ友やママ友、園児ら約30人が応援に駆け付けた。場内の壁には友人たちが贈った横断幕が掲げられ、リングを見守る。家族会がつくった「ドラベ症候群の日」のシンボルマークを縫い付けたトランクスでリングに登場した馬場さんは、同じマークの団扇を掲げて、観客にアピールした。

「ドラベ症候群の日」のシンボルマークの団扇を掲げて観客にアピールする馬場裕一さん=1月12日午後、東京都文京区・後楽園ホール

 距離を取る対戦相手に果敢に飛びかかる。「がんばれ~」。父母や子どもたちの声援が場内にこだまする。最終4ラウンドまで闘ったが、攻めきれず結果は判定負けに終わった。険しい表情で何度も天を仰いだ。

 「せっかく来てくれたのに、勝てなくてすみません」。控え室に戻った後、ロビーでパパ友たちに囲まれた馬場さんは、ボクサーから父親の顔に戻っていた。

 「昔はボクシングをやるのは自分のためだったけど、今は琳輝の病気のため、それだけですね」

 プロボクサーは原則37歳で定年だ。リングに上がれる時間は限られている。琳輝ちゃんは4月から特別支援学校に入学予定で、生活環境が大きく変わることに心配や不安は尽きない。子どもたちと一緒にいる時間を今まで以上に大切にしてやりたいとも思い始めた。次の試合が最後かもしれないという気持ちで臨む。

 自分が試合に勝つ姿で、同じ病気の子どもたちや家族を勇気づけたい。1試合でも多く勝ち、1人でも多くの人に病気を知ってほしい、そして―。

 「自分が生きているうちに絶対治してやりたい」。自らの闘いが琳輝ちゃんの未来を切り開くと信じている。

患者家族会がつくった「ドラベ症候群の日」のシンボルマークを縫い付けたトランクスでリングに上がる=1月12日午後、東京都文京区・後楽園ホール

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