そのひとりに寄り添う支援

「知恵」をもとに取り組んだ支援活動

平成30年7月豪雨で大きな被害を受けた広島県安芸郡坂町にて、研究科災害支援チームとして7月13日より交代制の常駐で支援活動を始めた。坂町は、広島市内から車で約20分の瀬戸内海がとても綺麗に見える町である。今回の災害で、16名の方が亡くなり、約1200件の住家被害があった。

支援活動は、坂町災害たすけあいセンターと連携した、心身ケアボランティア(マッサージ・足湯・傾聴)の調整、そして避難所衛生支援として仮設トイレや避難所内清掃を実施。また、避難所環境改善としてダンボールベッドの設置やヒアリング調査、避難所から仮設住宅等への引っ越し支援などを行なった。

その後、現地ニーズの変化に伴い9月10日以降は支援体制を変え、月に2回ほど坂町に足を運び、生活再建支援を実施している。仮設住宅や地域の集会所で、お茶会、表札づくり、カラオケ大会などの居場所づくりとなる内容や、そこから知る住民さんの不安感や疑問の解消に向けた、勉強・意見交換会として「復興塾」を開催し、発災直後から住民さんと関わっているからこその気付きを大切にして、その場その時の状況に合わせた生活再建支援を続けている。

この支援活動を続けるなかで、ずっと大切にしてきたことがある。それは、研究科の教員から伝えられてきた、これまでの被災地での復興から得た「知恵」である。それは、縁もゆかりもない「よそ者」が被災地に行き、そこで目の当たりにする多くの課題に取り組んでいくにあたって、これまでの「教訓」や「知見」を押し付けるのではなく、その地域がら(地域のスケール感やこれまでに育まれた住民性等)を見極め、地域に合わせて柔軟に適応させていくことが重要だということである。その「知恵」をもとにしながらも、「その地域」、「そのひとり」に寄り添うことの大切さと難しさに頭を悩まされながら取り組んだ支援活動のなかで、私に衝撃を与えた二つの出来事について述べていく。

 

ダンボールベットを拒むお母さん

避難所に背の高い間仕切りが届いた。それまで、小学校の体育館に各々バラバラな広さで、そして隣同士ぴったりくっついてプライベート空間無く過ごしていたため、間仕切りが到着してすぐ見本を作成し体育館の中央に置き、この間仕切りの導入について避難者さん同士で考えてもらうことになった。結果は、「少し顔が見えるくらいの仕切りだったら良いが、これは不気味だ。」となり導入はされなかった。しかし、個々に話をしていくと「寝ている顔が他から丸見えだと思うと休まらない。」という声がいくつかあり、ダンボールを用いて腰丈ほどの高さの仕切りを作成して改善した。

発災から約三週間後、避難所にダンボールベッドが届いた。それまで避難者さんは、床の上に薄いマットレスで寝ていた。ダンボールベッドの導入を進めるにあたって、ベッドを拒む人が一定数いた。あるお母さんによくよく話を聞くと、「隣の人が使わないんだったら、私が使うと段差が出て上から見下ろすことになるからいいわ。」といった意見や、「私たちがここにダンボールベッドを置くと、奥のおばあちゃんたちのテレビを見る視界を遮ってしまうことになるから。」という、共同生活ならではの周りへの気遣いや遠慮が、結果として「心身に悪い影響を与える我慢」として避難者さんに負担をかけていることがわかった。

支援者は「一時的な関わりの人」であることが多い。なので、そこで生活している人たちの関係性や独自ルールを知りながら、そしてタイミングを計って支援をしていくことが必要である。間仕切りやダンボールベッドの導入にあたっては役場職員とも相談し、見本をつくり避難者さん同士で話し合いをする機会をつくったり、避難者さん同士の交渉役として役目を果たしたりしながら環境改善をしていった。テレビを気にしてダンボールベッドの導入を諦めていたお母さんの場合には、そのような心配をしているということを相手方に伝え、テレビ台を高くするなど、何度も会話を重ねながら調整し、無事ダンボールベッドを使用することができた。

すると、「実は周りの人は起床時間が早くて、寝不足気味なの。」というつぶやきが聞かれ、プライベート空間を確保するためベッド横に腰丈ほどの間仕切りを作成して改善した。災害により心身ともに被害を受けたあとに避難所で「住まう」にあたって、共同生活による「心身に悪い影響を与える我慢」や、プライベート空間が十分に確保されないことによるストレスを少しでも解消していくための取り組みが課題である。

 

仮設住宅に引っ越したおじいさん

あるおじいさんの避難所から仮設住宅への引っ越しを手伝った際の出来事である。引っ越し作業中、「一応まだ避難所にダンボールベッド置いといてもいいかな。」というつぶやきが聞かれ、避難所に残っているみなさんも「いつでも戻っておいで。」と快諾した。その後、仮設住宅へお引越しを終えることができたが、実はおじいさんはその日の夕方には避難所に帰ってしまった。仮設住宅は、抽選によって入居者が決められた。被災後、偶然集まった人たちと初めての避難所で新しい関係を構築してきたにも関わらず、数か月かけてできたその避難所でのコミュニティが分解され、また新たに、隣に誰が住んでいるのかわからない状態からコミュニティを育んでいかなければならない状況に陥ったわけである。何度もコミュニティを作り直すことは、特に、急激な環境の変化に対応することが厳しい高齢者や課題を抱えた人たちにとって、大きなストレスを抱えることになる。このような課題はこれまでの災害でも明らかになっており、地区ごとに仮設住宅の入居を行うこと等の必要性が挙げられてはいるものの、必ずしもそういった知見が生かされていない現状がみられた。また、離れたところに建設された仮設住宅は、その生活環境が全くわからない。これまでのような庭いじりもできなければ、友人とちょっとお茶をする喫茶もない。

仮設住宅は「仮の住まい」ではない。もとの生き生きとした生活リズムを取り戻すための大切な住まいである。このままでは、コミュニティを構築することに疲れ、生きがいを失い、復興の道を進むことができなくなっていく。「住まう」こととは、どういうことなのか。単に「住居」が整うことが、生き生きとした「暮らし」を取り戻すのではない。ご近所付き合いや、畑作業をすること、また、地域での習い事で友人と顔を合わせることが、その地域で「住まう」ことであり、その議論がなされる復興こそが、人の営みを中心に考える人間的な復興であると考える。避難所に戻ってしまったおじいさんにとって仮設住宅は、「住まい」になっていなかったのである。

 

二つの出来事を通して

ダンボールベットを拒むお母さんと、避難所に戻ってしまったおじいさんのお話しをした。個々のお話しや悩み事に気付くことは難しい。できるだけたくさんの人に、できるだけたくさんのことをしようと思いがちで、ゆっくり、ひとりひとりとお話をする時間を確保することを忘れてしまう。しかし、私たちのような「よそ者」である支援者こそが、ひとりひとりの声に耳を傾け、「そのひとりに寄り添う支援」ができる存在なのではないだろうか。そして、その会話の中で聞くことができたつぶやきから、災害時に発生している大きな課題への解決策を検討するヒントを得ることができるということを、この支援活動を通して学んだ。そのつぶやきからわかったことは、「ひとらしい生活」は、「ひととひとのつながり、生きがい、そしてそれらの関係性」によって保たれているということである。災害を機に、町外で生活することを決めたおばあさんが、「仮設住宅は良かったわよ。仲良しな人が周りにいっぱいいて。」と、久々に訪ねていった私につぶやいた。「ひとらしい生活」は何に支えられているのか、改めて私たちに問いかけているように感じた。そしてまた、これらの出来事からみえる課題は、災害時のみに限らず、平時から直面している社会の課題にも共通して考えられる部分があるのではないかと考える。

坂町のみなさんは、地元をとても大切に思っていて、地元に少しでも早く帰りたい、少しでも早く生活リズムを取り戻したいと強く願っている。これからの復興に、時間はまだまだかかるが、それでも地元を想う人たちがいる限り、少しでも力になれるようその想いに寄り添った、そしてそのひとりに寄り添った支援活動ができればと思っている。

 

【内藤悠プロフィール】
1995年生まれ。三重県伊賀市出身。兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科修士2年。
大学1年の春休みに、(一社)助けあいジャパンのきっかけバスプロジェクトに参加し、初めて東日本大震災被災地へ赴く。
そこで目の当たりにした、建物の基礎部分のみになった住宅地に衝撃を受けた。また、陸前高田の語り部さんの「ここで学んだことを地元に帰って伝えてほしい。それがこの震災で犠牲になった方々への一番の供養になる。」という言葉を受け、もともと教員を志していた中で、「防災」を教材とした、「自分自身や生きることと向き合い、周りの大切な人のことを思いやること」について子どもたちと考えていくことのできる教員になろうと心に決める。一緒に東北を訪れた全国の学生と共に、「学生団体つながり大作戦」を立ち上げ、東日本大震災へのスタディツアーの実施や、そこから得たことを各地元に伝えていく活動を行った。その後、現在の研究科に進み、防災教育を研究テーマとし、熊本地震被災学校への「心のサポート授業」の実践や研究を行ってる。

© 一般社団法人助けあいジャパン