1ゴールで人生が変わる 元Jリーガー長谷川太郎さんインタビュー

1月某日柏レイソルやヴァンフォーレ甲府をはじめ、Jリーグ複数クラブでプレーし、現在は一般社団法人TREの代表理事を務める長谷川太郎さんに話しを伺った。

挫折を経験しながらも努力や仲間の支えがあり、念願のJリーガーに

1月某日、柏レイソルでプロデビューし、ヴァンフォーレ甲府時代にはJ2日本人得点王も獲得した元Jリーガー長谷川太郎さんにセカンドキャリアをテーマにお話を伺った。

辻本:本日はよろしくお願いします。

長谷川氏:よろしくお願いします。

辻本:まず、始めにサッカーを始められた時期やきっかけを教えてください。

長谷川氏:サッカーを始めたのは小学校1年生の春くらいで、キャプテン翼の岬太郎と名前が同じこともあり、岬君に憧れて地元のFC千住イーグルスでサッカーを始めました。

辻本:キャプテン翼の影響なんですね!FC千住イーグルスはどのようなクラブでしたか?

長谷川氏:いわゆる少年団に近いクラブで、コーチはみんなボランティアでした。ただ、お父さんコーチも含めみんなサッカー経験のあるコーチで、練習回数も週に4回ほどありました。クラブは

サッカーを楽しむこと、積極的にチャレンジするという方針でした。

辻本:育成年代ではとても大事なことですよね。FC千住イーグルスでの6年間はどのようなものでしたか?

長谷川氏:全国少年ミニサッカー大会(フットサル全国大会のバーモンドカップの前身)に出場することができ、ベスト5という賞も頂きました。ただ、6年生の時は当時日本一と言われた某チームのJr.ユースのセレクションに落ち、サッカーを辞めたいと思う程の挫折も経験しています。千住イーグルス時代に出会った恩師は、柏レイソルと契約する際にも同席してくださったりととてもお世話になりました。現在もアドバイザーとしてクラブに関わっていますが、昔から変わらずとても良いクラブです。

辻本:今でもクラブに関わられているんですね!その後は柏レイソルのジュニアユース、ユースと

進まれたんですよね?

長谷川氏:はい。セレクションに合格したレイソルのジュニアユースに入団しました。

辻本:狭き門を突破されたのですね。Jの下部組織ということもあり、やはり、上手い選手が集まってきていましたか?

長谷川氏:ナオトインティライミなどと一緒にプレーしました。ナオトも含め、まわりも皆上手くてレベルは高かったです。2年生の時にレギュラー落ちを経験、そして中学最後の全国大会ではベンチから戦況を見守ることとなり、ここでも悔しい気持ちを味わいました。

辻本:凄い選手達とプレーされていたんですね。その後はユースに昇格されていますが、ジュニアユース時代とどういった所が変わりましたか?

長谷川氏:ユースに上がってからはより、トップチームを意識するようになりました。先輩でトップチームに昇格した人も見てきましたし、練習試合をする機会もあり、ジュニアユース時代よりもさらに意識するようになりました。高校2年生に上がる直前の春休みには、トップチームの練習に初めて呼ばれ、そこからはトップチームがさらに現実味を帯びてきました。

辻本:プロがすぐ近くにいるのは良い環境ですよね。ちなみに、少し質問が変わりますが、Jリーグのユースに所属する選手から見た高校サッカーってどんなイメージなんですか?

長谷川氏:正直言うと、当時は憧れがありましたし、羨ましいとは思ったことはあります。自分もレイソルのユースに上がる前に、東京の某強豪校に行きたいと思ったことがあります。ただ、よりプロに近い環境だったユースに昇格することに決めました。

辻本:そうなんですね。話をユース時代に戻りますが、高校2年生以降のユースでの様子はいかがでしたか?

長谷川氏:2年生になって1年生の時にあまり合わなかった自分のイメージと体の動きが一致してきて、上手くいっていたのですが、全治半年の腰の怪我をしました。2年生のこの時期はトップチームに昇格できるかどうかの大事な時期なので、ショックもありました。ただ、治すにはどうしたら良いかを考え、自分で病院やリハビリの方法を考えたりして切り替えました。復帰できたのは高校2年の3月でした。

怪我中は別メニューだったのですが、その時に練習に付き合ってくれたのが、現在、サンフレッチェ広島で育成ダイレクター兼育成のスカウトを担当している佐々木直人コーチでした。佐々木コーチの支えもあり、復帰することができました。そして、復帰後には、当時の同級生だった松本拓也(2018年まで柏レイソルのGKコーチ)の協力もあり、夏にトップチームへの昇格が決まりました。

辻本:念願のトップチーム昇格ですね。昇格が分かった瞬間の気持ちを聞かせてもらえますか?

長谷川氏:契約書を交わす時は実家だったのですが、親と小学生時代に在籍したFC千住イーグルスの監督も同席してくれました。自分の努力や才能だけでなく、本当に多くの方の支えがあってプロになることができて、感謝しています。

高校卒業を待たずしてプロデビュー 甲府時代には1ゴールで契約延長が決まる

辻本:柏レイソルのトップチームに昇格してプロになったわけですが、プロになって感じたことを教えてください。

長谷川氏:西野朗監督の元、高校卒業の前にデビュー(1998シーズン第3節)もしていたので、最初はうまくいっていました。しかし、ずっとプロになることを目標にやってきて、いざそれが叶って次の目標が定まっていなかったので、試合に出れない日々が続きとても苦労しました。この時にまわりの選手の対応力やメンタルの重要性を痛感しました。

辻本:その後の選手生活はいかがでしたか?

長谷川氏:1年目が終わり、2年目を迎える前のオフにドイツに行きました。そこで試合を観て海外のサッカーのレベルの高さを感じましたし、いつかは海外でプレーしてみたいとも思うようになりました。とてもいい刺激になりました。それで、2年目にはナビスコカップでもゴールを決めて、優勝に貢献することができました。

辻本:レイソルでは4年間プレーし、その後2002年にアルビレックス新潟にレンタル移籍されたんですよね?

長谷川氏:はい。新潟の監督は反町康治さんでしたが初めての移籍でポジションも変わり、苦労しました。新潟に来て初めて、「ずっと選手を続けられるわけじゃないんだな」と感じ、将来に不安を覚えるようになりました。

辻本:その後、2003年にヴァンフォーレ甲府に移籍されてますが、その経緯を教えてください。

長谷川氏:新潟とレンタル元のレイソルの両方を退団することになり、トライアウトを受けました。それで甲府ともう1チームから声をかけてもらい、甲府に移籍することが決まりました。

甲府の1年目の2003年は数試合しか出れず、翌年の2004年契約期間は半年間でしたがしばらく活躍できない状態が続きました。試合に出られなかった時期はレイソルでチームメイトだった玉田圭司選手を参考にしてました。彼はどんな時でも自分のスタイルを変えず、自分の良さを出していたので、彼にも負けない自分の良さを考えるようになりました。

そんな中で迎えた、6月19日のコンサドーレ札幌戦でチャンスがまわってきました。後半、リードされている状況で投入され、同点で迎えた後半41分にジャンピングボレーで決勝ゴールを決めました。

そして、この1試合の1ゴールで契約延長が決まり、この年は17試合に出場し、3ゴール挙げることができました。この1試合の1ゴールで本当に人生が変わったと思っています。

辻本:1試合、1ゴールで人生が変わるというのがプロの世界なんですね!

長谷川氏:2005年は日本人得点王も獲得しましたし、本当にあの札幌戦のゴールがなかったら

私の選手生活はもっと早く終わっていたかと思います。

辻本:その後、2007年に甲府を離れ、徳島や横浜FC、ギランヴァンツ北九州でプレーされたのですね。

長谷川氏:J2昇格なども経験しましたが、2008年にカズさん(三浦和良)とプレーできたのは自分のサッカー人生の中でもとても大きかったです。

辻本:その後は県リーグの浦安SC(現在のブリオベッカ浦安)を経由して、インドでプレーされてますよね。

長谷川氏:北九州から浦安に移籍するタイミングで一度、タイに行ってるのですが、やはり再びJリーグでプレーしたいという思いがありました。そして、カズさんに相談するのですが、カズさんから「サッカーはどこに行ってもサッカーだから」という言葉をかけられ、下のカテゴリー(当時千葉県1部)から上のカテゴリーに上がっていこうと決意して浦安に入団しました。

2013年、浦安最後のシーズンでは中学生年代の女子チーム始めとする子ども達を指導しながら、プレーしていたのですが、常に選手達に「夢を持ってやろう」と言っていて、夢を諦めて引退しようとした自分に違和感を覚えてました。

そして浦安が当時まだJリーグへの昇格が難しい状況の中で、海外に行きたいというもう1つの夢があり、タイに行く選択肢もある中で3ヶ月間契約でインドに行きました。

辻本:最終的にインドを選ばれたのですね。何故インドを選ばれたのでしょうか?

長谷川氏:はい。タイには一度行っていたのですが、ナンが好きだったりでインドを魅力に感じていたので、知り合いのエージェントから紹介してもらったインドのチームに行くことになりました。

危ない国に行くことに家族は反対していました。契約が決まってからインドに行くことにしたと事後報告しました。その時に「身近な人が応援してくれないとプロではない」と感じました。

インドでは、給与未払いや野良犬に追われたりと、日本ではあまり考えられないことが起こっていました。何度もクラブの事務所に行って交渉したら、「結果を出していないから全額は払えない」と言われ、一部しか払ってもらえませんでした。しかし、その後の試合でゴールを決めると払ってもらえるようになりました。

辻本:その後、インドでプロサッカー選手を引退されたのですよね。

長谷川氏:はい。色々あって契約が終わった後、1ヶ月くらいインドから日本に帰れませんでした。

初めてサッカー選手以外の仕事を経験。そしてストライカー育成のため、スクール設立へ

辻本:ここからは現役引退後からスクール設立までの経緯をお聞きしたいと思います。

長谷川氏:引退後は、まわりから「少し休んだら?」と言われることもありました。その後は知り合いの紹介で警備会社のアルバイトをすることになりました。初めての仕事は某アイドルグループのCMやPV撮影の警備でした。その後、紹介してもらった企業に正社員として就職しました。

辻本:プロサッカー選手という、一般の社会人とは少し違った世界から会社員になられていかがでしたか?

長谷川氏:毎日満員電車に揺られての通勤、電話対応や名刺の交換の仕方、パソコンの使い方など選手時代に経験していないことばかりで大変でした。社会人としてのマナーを学びましたが、できないことが多くてとてもつらかったです。社長はとても厳しい一面もありましたが、温かい人で、多くのことを学ばせてもらいました。

辻本:話が現役時代に戻りますが、長谷川さんは現役時代にセカンドキャリアのことを考えていましたか?

長谷川氏:新潟時代に「ずっとサッカー選手を続けられるわけじゃない」ことを学び、1ヶ月で10冊近く本を読んだり、資格の勉強をしました。タイにトライアルに行っていて、練習に参加できなかった時もありましたが、そのことを前向きに捉えてマッサージの資格も取りました(笑)

辻本:その後、会社(一般社団法人TRE)を設立されるのですよね。

長谷川氏:はい。会社員をしていた2015年1月にアジアカップでサッカー日本代表がUAEと戦い決定力不足で負けた試合がありました。決定力不足はずっと言われてきている課題。ストライカーだった私は、なぜ決定力不足なのかを考えました。

日本は海外に比べて、相手に気を遣う文化があると思い、それがプレーに影響しているのではないかと考えました。そこで、日本人選手がこれまでより積極的にシュートを打てる環境を作りたいと思い、勤めていた会社の皆様にご理解頂き、一般社団法人TREを設立。そして、ストライカープロジェクトを立ち上げることになりました。

辻本:私も見てましたが、アジアカップのあの試合がきっかけだったんですね。長谷川さんが生きていく上で大事にしていることやテーマを教えてください。

長谷川氏:大事にしていることは色々ありますが、「ワクワクする」「貢献する」です。これは現役時代にも大事にしていたことですが、どんな環境でも如何にその環境を楽しむ、ワクワクできるかがとても大事だと思います。そして、プロである以上、結果を出し、貢献していかなくてはなりません。

セカンドキャリアでの明暗が分かれる鍵は何なのか

辻本:私は以前、元Jリーガーだった方に「自分がサッカー選手だった」ことに区切りをつけられる人はセカンドキャリアでも満足のいく生活を送れると言っていたのが印象に残っています。長谷川さん自身はどう感じていますか?

長谷川氏:私は、2015年10月に引退試合をやっているのですが、そこで、改めて自分は「もうサッカー選手ではない」と感じ、皆に区切りをつけさせてもらえました。引退試合をするかどうかは選手に大きな影響を与えると思います。だから、TREでは引退する選手のサポートもさせてもらっています。

辻本:なるほど。サッカーでは、カテゴリを落としてでも現役にこだわる選手が多いですよね。

長谷川氏:カテゴリを落として現役を続けることは悪いことだと私は思いません。ただ、選手として培ったプライドをエネルギーに変えていくために、区切りをつけることは必要だと思っています。サッカー選手になるための努力や選手達が持っているエネルギーはすさまじいと思うので、そのエネルギーをサッカーのプレー以外のところで発揮できるように切り替える必要があると思っています。そして、ギラギラではなく、キラキラしていることが大切だと思います。

辻本:自分がもう選手ではないということを受け入れ、前を向く必要がありますね。

日本からワールドカップで得点王を取るようなストライカーを輩出するための課題とは?

辻本:長谷川さんのストライカースクールでは、2030年にワールドカップ得点王になる選手の輩出を目標にされていると思いますが、そのために必要なことは何だと思いますか?

長谷川氏:ゴール前での意識を変えることですね。日本人は先ほども言ったように他人に気を遣う文化があります。だから日本人はゴール前でもシュートを打つか分かりにくい時が多くあります。しかし、海外の選手だとシュートを打つ瞬間が分かるので他の選手はこぼれ球を狙い、走り出します。

日本はまだまだ自分がシュートを打つという意識が少ないと感じています。

そして、日本ではシュートを外すと指導者などから指摘されますが、決めてもクールなことが多いです。だからシュートを外したことを言われるなら、パスを出して味方に決めてもらったほうが褒められると考える選手が出てきます。しかし、海外では、シュートを外すとバッシングされる分、決めるとそれ以上にまわりから褒められます。

TREでは大人向けのスクールも運営していますが、それは、指導者や大人の人達に子ども達がゴールに向かい雰囲気つくりをしてもらいたい、ゴール前の指導のきっかけになってもらえたらという想いでやらせてもらっています。

辻本:ではそんな長谷川さんが日本人でNO1のストライカーを挙げるとしたら誰になりますか?

長谷川氏:やはりカズさんですね。今の日本代表選手でいうなら大迫勇也選手ですが、やはりカズさんだと思います。何歳になっても常に試合に出てゴールを決めてチームに貢献するという姿勢は変わっていません。現役中も引退後もお世話になっていますが、本当に尊敬しています。

辻本:では、最後にこれからサッカーを始める子どもや今プロを目指している選手達に伝えたいことはありますか?

夢を持って、どんどん挑戦し続けて欲しいです。そして、夢を持つだけでなく、イメージを明確にして、その夢(ゴール)を達成するまでに何が必要かを考えて、逆算する力をつけてほしいと思っています。

辻本:本日は大変貴重なお話しをありがとうございました。

長谷川氏:ありがとうございました。

長谷川さんの取材を通して、アスリートのセカンドキャリアで重要なことが、サッカー選手に見切りをつけ、現役時代に培った経験やエネルギーをプレー以外のものにそそぐことが大切だと強く感じた。

そして、何よりJリーグというプロの世界は経験したものにしか分からない厳しい世界があるということも感じさせられる取材となった。多忙な中、取材を快諾頂いた長谷川さんにこの場を借りて改めて感謝を述べたい。そして、いつの日か日本代表がワールドカップで優勝し、日本から得点王が生まれることに期待したい。

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