28歳で事故死…エミリアーノ・サラはどんな選手だったのか

7日夜、ガーンジー島沖の海底に沈む飛行機の残骸から引き上げられた遺体が、ナントからカーディフ・シティに移籍する途中だったFWエミリアーノ・サラだということが判明した。

行方不明となってから17日。冷たい海の中で眠っていたサラは、ようやく家族や愛犬の元に帰ることができる。

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不慮の事故によって、わずか28歳でこの世を去ることになったエミリアーノ・サラ。彼はどんな選手だったのか。改めて振り返る。

生い立ち

サンタフェで生まれたイタリア系アルゼンチン人のサラ。父親はトラックの運転手として働いており、後にプログレッソに引っ越した。

近隣のクラブであるサン・マルティン・デ・プログレッソでサッカーを始め、15歳でコルドバのプロジェクト・クレセルに移っている。2009年にはポルトガルの下部リーグでプレーしたが、ガールフレンドの問題で帰国を余儀なくされたという。

その後、このプロジェクト・クレセルが提携していたボルドーのBチームに加入した彼は2シーズンで43試合に出場、16ゴールを決める。

オルレアンとニオールへのローン移籍を経験し、3部リーグでゴールを量産した彼はボルドーと契約を延長するも、2014-15シーズンのリーグアンでは結果が出ず。後半戦はカーンに貸し出されてしまう。

ナントでのブレイク

カーンでの半年で5ゴールを決めたサラは、2005年夏に同じリーグアンのナントへの移籍を決断。その取引額は100万ユーロ(およそ1.3億円)だった。

初年度はわずか6ゴールと苦戦したが、2年目と3年目はそれぞれ12ゴールを決め、エースとしての責任を全うする。

今季の序盤はカリドゥ・クリバリにポジションを奪われてしまったが、チームの成績が芳しくなかったことでミゲウ・カルドーソ監督が解任。

ヴァイッド・ハリルホジッチ新指揮官の下でスタメンに復帰した彼は、なんと新体制の初試合でハットトリックを達成。ゴールを量産し始め、前半戦だけで12ゴールを決めた。

そして、今年1月にイングランド・プレミアリーグのカーディフ・シティがクラブ記録となる1500万ポンド(およそ21.76億円)の移籍金で彼を引き抜いた。

サラはプレミアリーグでプレーしたいという意志を強く持っていたことから、中国超級リーグからの好条件を蹴ったという。

サラと監督の関係

ナントの監督を務めていたクラウディオ・ラニエリ氏とは非常に良い関係を作れていたという。サラは『L'Equipe』で以下のように話していた。

「ラニエリは素晴らしい経験を持っているし、とても落ち着いている。

そしてイタリアのスタイルをもたらしてくれたね。それを試合でも時々見せられていると思う」

現在フラムの監督を務めているラニエリ氏は、サラについてこう評していた。契約には至らなかったが、先月獲得にも動いていたとか。

「人々は、彼があらゆる場面で戦おうとするのを見るだろう。それはチームメイトにも『同じことをやらなければ』と思わせる。

彼は皆のために良いお手本になれる男なのだ」

サラを大ブレイクさせたヴァイッド・ハリルホジッチ監督も、サラの人格面を高く評価。行方不明となったあと『L'Equipe』などのメディアに対して以下のように話した。

「サラのことを悪く言う者は見たことも聞いたこともない。本当に素晴らしい男だった。素晴らしい少年だった…。

私は長くサッカー界で生きているが、これほどまでに愛らしく、謙虚で、奥ゆかしい人物を見ることは稀だ。ピッチ上では戦士になる一方で、練習場で何か文句を言ったことはない」

そしてカーディフ・シティでサラを獲得したニール・ウォーノックは、『Sky』によれば彼のプレーを非常に気に入っていることを明かしていたという。

「私は彼が好きだ。一生懸命働く選手だ。彼がすべてを解決してくれるとは思っていないが、ストライカーが必要だった。

我々が探していたのは、チームに適合できるタイプの選手だ。彼は勤勉で、チームのために渾身のプレーをする。

目を引くタイプではないだろうが、監督が好む選手である」

なぜ彼がナントからカーディフ・シティに向かう途中で行方不明となったのか。どうして冬のフライトに危険を伴う小型飛行機が使われたのか。これから事故の原因について調査が進められていくはずだ。

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