東京パラでメダル取る 車いすバスケットボール 川原凜 長崎国体世代の現在地(6)・完

 全国障害者スポーツ大会は障害のあるアスリートの「国体」。2014年地元大会に向けて、車いすバスケットボールの県選抜チームも約4年前から強化を進めていた。大学生や社会人に交じってメンバー入りした高校生は2人。その1人が川原凜だった。
 それからは元日本代表選手が指導する強化合宿などを経て、本番でハイレベルなプレーを目の当たりにした。「僕も、もっとうまくなりたい」。長崎では「めったにできない」経験が、17歳の視野を広げる一つのきっかけになった。

■道が見えた
 脊髄腫瘍で生まれつき下半身にまひがあり、幼いころから車いす生活。中学時代にこの競技と出合い、長崎市のクラブチーム「長崎サンライズ」で高校1年から本格的に打ち込んだ。県選抜の活動などを通じて意識も高まり、高校卒業後は県外に“刺激”を求めた。
 千葉市で1人暮らしを始め、知人がプレーしていたクラブチーム「千葉ホークス」に移籍。職業訓練校に1年通った後、一般企業に就職した。働きながら、練習に励む日々。上がった戦うレベルに自然と対応していたのか、日本連盟の強化指定を受け、合宿や遠征に呼ばれるようになった。
 「うまくなりたい」と長崎を離れたものの、頭にはなかった日本代表。徐々にその高みを目指す意欲が出てきた。週2、3日だった練習をほぼ毎日に増やして、筋力トレーニングなども追加。17年夏にコンビニ大手のローソン所属となり、プロ選手のように競技に集中できる環境も手に入れた。自分の進む道がはっきりと見えた。

■代表の自覚
 17年6月の国際大会で日本代表に初招集。その後はメンバー12人に定着している。一番の武器はディフェンス。代表の及川晋平監督も「車いす操作のスキルが高く、バスケセンスがある。集中力が上がり、成長してきた」と期待を込める。だから今、20年東京パラリンピックは憧れではなく目標。「自分が頑張って絶対にメダルを取る」。そんな自覚も芽生えている。
 日本チームには16年リオデジャネイロ・パラ代表で二学年下の鳥海連志(パラ神奈川SC、大崎高出身)がいる。14年の県選抜に名を連ねたもう1人の高校生だ。そろって、ある国際試合に出場した時。選手紹介で「フロム・ナガサキ」が2回アナウンスされた。「何だかうれしかった」
 関東に拠点を移して感じた地方との差は、障害者スポーツへの「熱量」の高さ。「僕や連志が活躍したら、長崎の人たちに、もっと興味を持ってもらえるかもしれない」。東京パラはきっと、その大きなチャンスになる。

献身的なプレーを武器に、日本代表に定着してきた川原=北九州市立総合体育館

 【略歴】かわはら・りん(ローソン、長崎明誠高出身)
 長崎市出身。黒崎中から長崎明誠高に進み、長崎サンライズで本格的に車いすバスケットボールを始めた。高校卒業と同時に千葉ホークスへ移籍。2013、17年にU-23世界選手権に出場して、17年は4位に入った。18年は日本代表として世界選手権とジャカルタ・アジアパラを経験。持ち点は障害が重いクラスの「1.5点」。千葉市在住の4年間で3回引っ越しをして、DIYが得意になった。1996年12月3日生まれ。

◎回顧録 2014 長崎国体 今につながる出発点

 「長崎サンライズ」と「佐世保WBC」の選抜メンバーで臨んだ長崎チーム。フォワード川原凜は持ち味のディフェンス力やスピードを生かして躍動した。準決勝で兵庫に63-66で惜敗したが、埼玉との3位決定戦は65-59で勝利。この銅メダルは初めて九州1枠を勝ち取った前年の東京大会と同じ色だった。「地元で優勝するぞ、という思いを果たせずに悔しかったけれど、今の自分があるのはこの大会のおかげ」。世界へ羽ばたく出発点となった。

銅メダルを手に、県選抜の仲間たちと笑顔で記念写真に納まる川原(右)=長崎市、県立総合体育館

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