起源は16世紀後半の城塞? 長崎学研究所・赤瀬所長 県庁跡地一帯の石垣研究

 旧県庁舎のあった長崎市江戸町から官庁街の広がる万才町一帯では、断続的に石垣が現れる。市長崎学研究所の赤瀬浩所長は、それらが一連のつながりを持って周囲を取り囲んでいると指摘。16世紀後半、ポルトガル人が築いた城塞(じょうさい)と関係があるのではないかと考えている。
 終戦翌年の1946年、進駐軍占領下に作られた地図「長崎市街案内図」。建物を立体的に描いた地図で、当時の街のあちこちに石垣があったのが分かる。そして確かに、石垣の一部は県庁跡地からぐるりと連なっているようだ。
 赤瀬所長は「初めて地図を見たときは驚いた。原爆で多くの建物が焼失し、石垣がぽつんと残った。米国人たちにはランドマークに見えたのだろう」と語る。
 この一帯に現存する石垣は、一般的には江戸時代に作られたとされる。だが赤瀬所長は、その起源はそれより以前の16世紀後半、長崎が開港してポルトガル船が入港した時期にあるとみる。
 開港以前の長崎は、キリシタン大名・大村純忠の家臣が現在の桜馬場地区近くにとりでを構え、周辺には小さな城下町があった。ポルトガル貿易を推進しようとした純忠は、1571年に長崎を開港。城下町から南西約3キロの港により近い岬の一角で、新たな都市建設を進め、現在の万才町に6町(島原、文知、大村、平戸、横瀬浦、外浦)ができた。
 建設まもない6町には各地から逃れたキリシタンなどが集住した。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスがイエズス会の日本布教史をまとめた著書「日本史」によると当時、「周囲一面敵に囲まれているから殲滅(せんめつ)させられることはほとんど確実」とみられていた。
 そこで宣教師たちは6町の防衛に力を注いでいく。「一同は木の柵を建て、岬を切り開いて(防備を)強化することを決意した。こうして(ここは)後に町となり城塞(化されていった)」(「日本史」)-。
 新長崎市史中世編は「我が国においては、領主の居城を防備することは当然であるが、民衆の居住する都市を防備しようという発想は、原始時代の集落はともかく、従来なかったように思われる。(略)ヨーロッパの都市防衛の在り方から着想したことは明らか」と指摘する。
 その後も周辺領主の攻撃に備えて堀を巡らせるなど、6町の要塞化が進められた。この6町を出発点に、その後、長崎は交易都市として発展していった。今、その6町を囲うように石垣が残る。これからの検証が待たれるが、赤瀬所長は「ポルトガルとの交易が盛んだった時代に基礎が築かれ、江戸時代以降に補修をしながら今に至るのではないか」と推測する。
 石垣に詳しい石川県金沢城調査研究所名誉所長の北垣聰一郎さんは、「現段階で時代を特定するのは難しい。ポルトガル人が自分たちで造ったわけではないだろう。市内の寺町かいわいには江戸初期の石垣が残っていると思われるので、早い段階で技能者がいたようだ。総合的な調査をしていくと面白い」と話す。
 赤瀬所長によると、石垣については不明な点が多く、誰がどのように築いたのか分かっていないという。来年2020年は開港450年目を迎え、長崎学研究所でも調査研究に力を入れていく。赤瀬所長は「長崎はポルトガル人が造ったまち。石垣は新たな史跡になる可能性がある。県庁跡地の発掘調査にも期待したい」と話している。

終戦翌年に作られた「長崎市街案内図」(長崎歴史文化博物館蔵、一部加工)の一部。描かれた石垣が、旧6町などを取り囲むように連なっているのが分かる
旧6町を取り囲むように断続的に現れる石垣=長崎市万才町

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