神奈川と平成 消えゆく学びや、山あいの「準限界集落」

 黒々とした丹沢の山に抱かれた相模原市緑区の青根地区。山梨との県境に位置する人口約500人の小さな集落の学びやから今、子どもたちの声が消えようとしている。

 2018年11月8日、市立青根中学校の会議室に集まった約20人の地域代表の表情は一様に暗かった。

 児童数7人の青根小学校と生徒数4人の青根中を存続させるか否か。市教育委員会が1年前の夏に地元の声を聞く場として検討協議会を設置して以降、議論が重ねられてきたものの結論は出ていなかった。この日は、市教委から示される方針をのむことが既に前回の会合で決まっていた。

 両校を2020年3月をもって閉校にし、同年4月に約8キロ離れた市立青野原小・中でできる小中一貫の義務教育学校に統合する-。協議会の議長役で、青根地域振興協議会の会長を務める関戸正文さん(69)は予想していた市教委の考えを聞いた後、下を向いている参加者にゆっくりと語り掛けた。

 「地域の子どもの数が減っている。苦渋の決断だが仕方がない」

 青根小ができたのは学制発布翌年の1873(明治6)年。この集落の前身である青根村の誕生よりも古い歴史を持ち、青根中も1947(昭和22)年に開校して半世紀以上になる。

 明治、大正、昭和、そして平成…。長きにわたって地域の中心となってきた学びやが閉じることが全員一致で決まった。

◆学校は地域の宝だった

 関戸さんが青根小に通っていた60年ほど前は、たくさんの子どもたちがいた。児童は180人近く。自慢は住民の手で建てられた木造校舎だった。

 完成は戦時中の1943(昭和18)年。地元の森から大木を切り出して校庭で製材し、川からは石を担いで土台にした。金属は戦争で供出していたため、各家庭から古いくぎを集め、たたいて伸ばして使った。棟梁(とうりょう)の指示で住民皆が協力したという。

 「『地域のみんなで建てた学校だ』と親や教師から何度も聞かされてきた。だから、掃除の時間にはぴかぴかになるまで磨いた。壁も床もいつもきれいで、黒光りしていた」。関戸さんは遠い目をする。

 小中学校の運動会には青根の3世代が集まり、さまざまな行事も校庭で催された。「学校は地域の宝だった」とも関戸さんは言う。

 だが、集落は時代の変化の波にのみ込まれていく。高度成長期を迎えると都市部に働きに出る人が増え、青根小の児童数は59(同34)年度の223人をピークに減少に転じる。64(同39)年の外国産木材の全面自由化や高齢化などにより主産業だった林業や農業は衰退し、地元には働く場所が少なくなった。

 2000年代には55歳以上の住民が半数以上を占め、県内唯一の「準限界集落」とされるようになる。

 追い打ちをかけるように16年4月、青根小の木造校舎が原因不明の火災によって焼失した。児童は青根中で授業を受けることを余儀なくされた。

◆いつか戻ってきてくれる

 「平成が始まった頃、児童はまだ多かった。移住者を受け入れる努力をしておけば」。同校卒業生で、1990(平成2)年に青根小学校のPTA会長を務めていた天野眞一さん(70)はため息をつく。

 その前年の青根小の児童数は61人、青根中は30人。子どもの数が減り、この年から小中学校が合同で運動会を開くようになった。天野さんは「子育て世代の減少が、人口減に直結してきた」と振り返る。

 伝統を受け継ぐ力も細くなっている。神社で四季折々に行われてきた神事を地域総出ではなく、役員だけで受け継いでいる地域や、正月のどんど焼きを隣の地域と合同で行っているところもある。

 関戸さんは、住民が支え合って暮らす青根の風土を愛している。丹沢登山で周辺を訪れる人を呼び込もうと地域の名所をマップにまとめ、周辺の観光施設で配布し、見晴らしの良い場所では地域住民で草刈りをしている。学校の跡地も地域活性化に役立てたいと考えている。

 お盆や正月に里帰りしてくる子どもや孫世代は数多い。更地となった青根小を見下ろす高台に立ち、関戸さんはつぶやいた。

 「青根で生まれ育ち、今は離れて暮らす子どもや孫たちはいつか戻ってきてくれる。それまでこの地域を守り続けたい」 

山間に広がる青根地区。中央手前の広場は青根小学校の跡地=相模原市緑区

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