家の近所に気になる店があった。色あせたのれんの下にカネノナルキの植木鉢が一つ。ネット情報はない。つぶれそうな割に客の出入りが結構ある。
私は「穴場の名店」を探していた。ある夜、ついにのれんをくぐった。
「おひとり?」 洗い場から還暦くらいの店主が首を出した。どうぞーと満面の笑みでおしぼりをカウンターに置く。気さくな感じ。
店は狭い小上がりとL字カウンター。先客が何組かいた。うち一人は、ふさふさの白髪をカウンターに広げ突っ伏して寝ている。
「生ビールください」と言うと、厨房(ちゅうぼう)奥から「はあーい」と派手な化粧のおばちゃんが現れ、「じゃまじゃま」と店主を押しのけビールを注ぐ。女将(おかみ)か。夫婦経営らしい。
店内の壁には赤富士の絵に魚河岸のカレンダー、卓上には招き猫の貯金箱や、造花の一輪挿しなどが雑然とあるが、掃除は行き届いている。
小上がりで飲んでいる30代くらいのあごヒゲの男が、「新顔さんだ」と私に軽く声をかけながら、自分の空になった皿とグラスを下げると、そのまま厨房に入り、自分の酒のおかわりを作り始めた。
ああ、息子さんがホーム飲みか。ヒゲの息子は冷蔵庫にマグネットでとめられている伝票の一枚に何か書いた。よく見ると正の字だ。雑だが、身内でも明朗会計らしい。感心だ。
アテは何にしようと考えていたところ、隣でスマホをいじっていた若い男性客が、メニュースタンドをずりずりっとスライドしてきた。「じゃマグロブツ」と注文すると、彼が無言で立ち上がり厨房に入ると冷蔵庫から小皿を出してきた。あれ? この人も息子さん?
彼は、彼の(ものらしい)伝票に「これオレのだから」と言いながら「一」と書いた。よく、わからない。
その時、熊みたいな大男が来店。熊男は「うーっす」と言いながらまっすぐ厨房に入り、勝手に一升瓶からコップに酒を注ぐと新しい伝票を貼り付け「一」と書いた……。
私は、ハッとした。そうか、ここはセルフサービスかつ会計は自己申告制の店なのだ。てことはこのマグロはお隣さんのおごりってこと?
「オレのだから」の意味を理解し、うれしくなると同時に恐縮した。
私は私の伝票をつくらなくてはいけない。生中とマグロの分を。
「あのう、私も伝票に正の字を……」
なぜか空気がざわついた。「そりゃいけねーな」、熊男が即座に言った。「初めてだから、ね」とヒゲの男。
「ダメダメ」とすごい目でにらむ女将さん。店主も曇り顔。
イチゲンは誰かがおごるシステムなのか? 私は潔癖な人間だ。
「いえ、ここはちゃんと」と立ち上がったその時、カウンターの白髪頭がざばんと起き上がった。
「仕事は、仲良く、分け合って!」 意味がわからない。骨張ったろう細工のような指が、壁のくすんだ張り紙を差した。
<お客様各位。掃除・給仕・セルフサービスなどされた場合は、1回につき会計50円引き致します>
解せた。本物の店主は寝て、客らが五十円バイトを奪い合う、迷店だ。私はおおいに呆れた。
その時がらがら〜と引き戸が開いた。新客だ。
よーいどん! という声がどこからともなく聞こえた。
「いらっしゃいませっ」私はとっさに半腰を上げていた。10回給仕し、「正」の字2つで500円引き。脳内のカネノナルキ電卓がきらきら点滅した。
(エッセイスト・さくらいよしえ)