【原発避難訴訟横浜地裁判決】提訴5年、安堵と不満

 東京電力福島第1原発事故の避難者訴訟で、横浜地裁は20日、東電だけでなく、国の責任も認定した。事故からまもなく8年、提訴から5年半。「大きな一歩」「賠償額が不十分」-。ようやく示された司法判断に、原告は安堵(あんど)と不満が交錯する複雑な思いをにじませた。

 「国の責任が明確に認められた。賠償額も基本的な部分は認められ、前進したと思う」。判決後、報道陣に囲まれた原告団長の村田弘さん(76)=横浜市旭区=はそう語ると感極まり、あふれ出た涙を拭った。一方で、事故から約8年を経てもなお古里への帰還は実現せず、闘いの終わりは今も見えない。

 

 村田さんが福島県南相馬市から次女夫婦を頼って横浜市内に避難したのは原発事故直後のことだった。大手新聞社を2003年に退職し、小学校から高校までを過ごした土地へ戻ろうと南相馬市小高区にある妻の実家に転居。荒れていた果樹園を再興し果物や野菜を育てるなど、定年後の生活を静かに送るはずだった。

 

 「事故を起こした加害者として謝罪するという態度が全く見えない」。原発政策を“国策民営”で進めてきた一方、古里を奪った当事者という意識の希薄な東京電力と国への憤りが募り、13年9月に第1次訴訟に踏み切った。

 

 周囲の求めに応じて団長職を引き受けた。先行きへの不安を抱えつつも、時に毅然(きぜん)とした姿勢が求められるだけに、「自分の気持ちをどう保つか、正直きついこともあった」。それでも原告仲間や支援者の協力もあり、「意地でここまでやってきた」と振り返る。

 

 東電と国を断罪した今回の判決の全てに納得しているわけではない。「我々は生活の基盤を全て奪われた。賠償額があまりにも少ない。1桁、2桁違う」

 

 16年に避難指示の解除された小高区の自宅には戻りたくても簡単には戻れないという。病院も週2回しか開かず、買い物も満足にできないからだ。追い打ちを掛けるかのように、神奈川県は自主避難者への家賃補助を3月限りで取りやめる方針を示した。避難生活は終わりが見えない一方で、取り巻く状況は年々厳しくなるという不条理に誰しもが直面している。

 

 だからこそ、安易な妥協と泣き寝入りは考えられない。「国には現在の『避難者いじめ』の政策をやめ、直ちに避難者の全面救済に責任を持って取り組むよう求めていきたい」

判決後、支援者らに「勝訴」を報告し、感極まる原告団長の村田弘さん=20日午前10時35分ごろ、横浜地裁前

© 株式会社神奈川新聞社