宮城県多賀城市に住む俳人の高野ムツオは、仙台駅ビルの地下で遅い昼食を取っていた時、大地震に見舞われた。<四肢へ地震(ない)ただ轟轟(ごうごう)と轟轟と>。駅近くのビルに勤めている娘に会おうとしたがかなわず、家まで約13キロを歩くことにした。午後5時半、夕闇が迫る。不安と恐怖にさらされながら「俳句を作らなければ」という気持ちが湧いていた。
途中から若い女性が後ろをついてきた。彼女の歩く姿が、なぜか触角を持った蟻のように感じられた。
<触角のきらめく少女地震の夜>。彼女が蟻なら自分は? 60代半ばの身は俊敏に動けず、とぼとぼと前を目指すしかない。<地震の闇百足(むかで)となりて歩むべし>
家まであと少しというあたりで、車数台が歩道に乗り上げていた。泥水にまみれて横転している車や電柱に衝突している車を見て、津波が来たことを悟った。「地獄の入り口」に立った気がした。
家に着いたのは午後10時半。津波は家の200メートル手前で止まっていた。5階にある自室のカーテンを開けると、仙台港の石油コンビナートが炎上し、空一面真っ赤だった。爆発音が聞こえてきた―。
一人の俳人が、未曽有の厄災をどう受け止め、どう表現してきたか。震災後、どのように俳句と向き合ってきたのかを記した一冊である。
震災後、新聞の俳句欄は一般の俳句愛好者たちによる震災詠であふれた。高野は「俳句形式の持つ無名の力」を感じたという。
「練磨洗練された言葉の姿や深遠高雅な思想とは遠いけれども、その場その時の人間の肉声が、生々しくかつ率直に、それぞれの在りよう以外では在り得ないものとして聞こえてくるのである」
それは、読み手の思い入れや想像力も加わって成立している世界かもしれない。しかし、もともと俳句とは、そういう芸文なのである。そう高野は納得し、それが「俳句の原点」だと力説する。
震災は季語まで揺るがしたという。例えば照井翠の<双子なら同じ死顔桃の花>は「桃の花」という季語の持つ情趣からはみ出している。節句に幼女の未来を願う季語の語感が反転し、悲劇をより深く刻印する。
小川軽舟の<原子炉の無明の時間雪が降る>。「雪が降る」という語句と、季節感を失った「原子炉」とのアンビバレントな語感、両者の対比がこの句の核にある。
俳句は最も短い詩形である。五七五で表現する世界はもともと、背後に拡がる「無限の沈黙」を支えとしている。だからこそ、語り尽くすことのできないほどの悲しみや苦しみを表現する手段として、大きな力を持つのだという高野の考察は、大震災をくぐってきた私たちの胸に落ちる。
最終章で高野は「震災詠一〇〇句 自句自解」と題して自らの句を載せ、解説する。
<春光の泥ことごとく死者の声>
<鬼哭(きこく)とは人が泣くこと夜の梅>
<みちのくの今年の桜すべて供花>
<瓦礫より出て青空の蠅となる>
今年もまた、3月11日がやってくる。
(朔出版 1800円+税)=田村文