『ニムロッド』上田岳弘著 虚無と哀切

 インターネット上で取引される仮想通貨。中でも有名な「ビットコイン」についての講演を聞きに行ったことがある。ビットコインは電子データであって、紙幣や硬貨のような実体はない。国の中央銀行のような管理者もいない。複数のコンピューターによる「ブロックチェーン」という仕組みで取引を監視し、「マイナー(採掘者)」と呼ばれる民間の事業者がその取引記録を更新していくという。

 採掘(マイニング=取引履歴の記載)による報酬を得るため、世界のあちこちで大型のコンピューターが稼働し大量の電力が消費されていると聞き、なんだか虚しくなった。人類はどこへ向かおうとしているのだろう。

 ビットコインの生みの親、サトシ・ナカモトは謎の人物だという。日本人っぽい名前だが、実は日本人ではないとか、本当は複数なのだとか、いろんな説があるらしい。そんなエピソードも印象に残った。

 平成期最後の芥川賞に選ばれた2作のうちの1作「ニムロッド」は38歳の中本哲史が主人公。名前の読みはビットコインの創設者と同じだ。サーバーの保守サービスを提供する会社に勤める彼はシステムサポートの本務をしながら、空いている時間でビットコインの採掘をせよと命じられる。中本がこのビットコインの仕組みを理解し、実際に採掘を始める物語を軸に、中本と友人、そして中本と恋人の関係が描かれる。

 友人の荷室仁、通称ニムロッドはうつ病になって一時会社を休み、復帰して東京本社から名古屋に異動した。その彼から中本にメールで「駄目な飛行機コレクション」についての文章が送られてくる。

 鳥の真似をして失敗した飛行機、着陸する時に地面が見えない飛行機…。「ねえ、中本さん、僕は思うんだけど、駄目な飛行機があったからこそ、駄目じゃない飛行機が今あるんだね」。航空特攻兵器「桜花」も駄目な飛行機に挙げられる。

 ニムロッドは小説の新人賞に応募し、最終候補に3度残ったことがあるが、デビューに至らなかった。その後も、誰にも読まれないかもしれない小説を書いている。

 彼がいま書いているらしい小説の一部が中本に送られてきた。文明の行き詰まった世界に生きる男が巨大な塔を建て、その屋上に「駄目な飛行機」を並べているというSF風の物語だ。作中の男は別の人物にこう言われる。「高い塔が建ち、その屋上に駄目な飛行機が揃った。君の願いももう完璧に叶ったのではないか? それでも君はまだ、人間でい続けることができるのかな?」。虚無感が漂う。

中本の恋人、田久保紀子も虚無を抱えている。出生前診断を受けて中絶、そして離婚した過去がある。今は「人類の営み」みたいなものには「のれない」と感じている。「これ以上もう年を取りたくないし、働きたくもない。死んでしまいたくはないし、生きていきたくもない」

 高度に発達した現代社会では、人間存在は限りなく代替可能なものとなり、個の意味が薄れていく。そのことを彼女は、人一倍感じている。

 ニムロッドの小説が予言する未来まで見渡したとき、人間の「生きる意味」は限りなく希釈され、希薄になる。人間存在と仮想通貨が同価値に見えてくる。

 私たちはかくも不安で孤独な時代を生きている。その哀切をこの作品は描いた。それは小説の存在意義を示し、逆説的に人間の生きる意味をも照らし出す。「人間が人間でい続けることができるのか」という問いへの答えなのかもしれない。

(講談社 1500円+税)=田村文

© 一般社団法人共同通信社