五輪の重圧、似た境遇 80年代に活躍のマラソンランナー瀬古利彦さん【私の中の金栗さん⑤】

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せこ・としひこ 1956年、三重県出身。早大からヱスビー食品に進み、国内外のメジャーマラソンで10回優勝。抜群の戦績から「日本男子史上最強ランナー」とも称される。2013年からDeNAランニングクラブ総監督。

 1970年代後半から80年代にかけて、日本の陸上長距離界をリードした瀬古利彦さん(62)。マラソンで五輪に2回出場し、金メダルを期待されたが成績は振るわなかった。現在は指導者として2020年東京五輪の選手育成に注力。その歩みは「日本マラソンの父」金栗四三と重なる部分も多い。

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 1964年の東京五輪。当時小学生だった瀬古さんは、最終日のマラソンで円谷幸吉が3位に入った時の感激を心に刻む。その円谷が影響を受けたランナーが金栗だった。

 「金栗さんは『人の2倍の練習をしよう』と、100年も前にいろんなことをやった。練習法が確立していない時代に、富士山での高地トレーニングや電柱インターバル走などを自ら考案した。強くなるには当たり前の練習だけでなく、ちょっと無理することも必要だと教えてくれる」

 金栗は五輪マラソンに3回出場し、20年アントワープ大会16位、12年ストックホルム大会と24年パリ大会は途中棄権。全盛期の14年ベルリン大会は第一次世界大戦で中止となり、悲運に泣いた。

 「私は優勝候補といわれた80年モスクワに日本の不参加で出場できず、84年ロサンゼルスは14位、88年ソウルは9位と入賞できずに終わった。金栗さんと似た境遇だ。五輪は特別な大会で、自分も周囲も冷静でいられなくなる。金栗さんも周りの期待の大きさにプレッシャーを感じたことだろう。責任感の強い人だから、(成績不振は)自分で自分を追い込んでしまったのも一因ではないか」

 金栗は戦後、日本マラソンの国際復帰に向けて「オリンピックマラソンに優勝する会」の総監督を務めた。瀬古さんも現在、日本陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーとして来年の東京に照準を合わせる。

 「金栗さんらが合宿で強い選手を競わせた中から、田中茂樹さんが米国ボストンマラソンで日本人初優勝を果たした。現代に通じる強化法だ。私の場合は二つのことに取り組んでいる。一つは代表選考に一発勝負の『グランドチャンピオンシップ』を導入し、安定性や勝負強さを持った選手を選ぶこと。もう一つは監督や選手の意識改革を進め、自分たちの時代のように練習量を増やすことだ」

 日本マラソンは過去3回の五輪で入賞1回と低迷している。東京五輪は真夏の厳しいレースが予想されるが、瀬古さんは「再生への第一歩となる重要な戦い」と強調する。

 「箱根駅伝は金栗さんらがマラソン選手を育てる目的で始めたが、今の大学や指導者はマラソンより脚光を浴びる駅伝を重視している。それがマラソン低迷の一因になった」

 「ただ、最近は男子の日本記録が次々に更新されるなど上り調子。世界のトップは2時間1分台に突入したが、東京の暑さを味方にすれば日本勢も十分戦える。マラソンの行く末を案じておられるであろう亡き金栗さんに、ぜひ良い結果を報告したい」(文・蔵原博康、写真・長濱星悟)

(2019年2月23日付 熊本日日新聞朝刊掲載)