日本を代表するプログレッシヴ・ロックの名盤の中から厳選した5作品を180g重量盤LPで再発売!

1980年代より、ジャパニーズ・ロック・シーンに革新的なインパクトを残し続け、日本のロック・レジェンド達が多く在籍し、今もなお国内ロック・シーンに多大な影響を与え続ける伝説の名門レーベル、NEXUS(ネクサス)。

NEXUSに残された日本を代表するプログレッシヴ・ロックの名盤の中から厳選した5作品を、発売当時のフォーマットを可能な限り忠実に再現し、LP(180g重量盤)で2019年2月27日に再発売した。厳選された5作品のラインナップは、日本を代表するプログレッシヴ・ロック・バンドNOVELA(ノヴェラ)の記念すべきデビュー・アルバム『魅惑劇』、世界基準のプログレッシヴ・ロック・バンドAIN SOPH(アイン・ソフ)のデビュー・アルバムにして最高傑作の呼び声高い『妖精の森』、ジャパニーズ・プログレッシヴ・ロック界において常に孤高の存在として君臨した伝説のバンド美狂乱の衝撃のファースト・アルバム『美狂乱(「乱」は反転文字)』、“永川敏郎”率いるGERARD(ジェラルド)の記念すべきファースト・アルバム『GERARD』、KENSO(ケンソー)のドラマティック且つ洗練されたコンセプト・アルバムで、今回初のLP化となる『夢の丘』。

発売当時のLPジャケット、インナースリーヴ等を可能な限り忠実に復刻している。

本作品の再発売を記念して、NOVELAから平山照継(G)、AIN SOPH から山本 要三(G)、KENSOから清水 義央(G,Bouzouki)のコメントが到着しているので、当時のレコーディング話など貴重な証言の数々を是非ご覧いただきたい。

平山照継(G) コメント

このご時世に何だ?とお思いか?

このご時世だからこその画期的な企画なのである。

商品が客を選ぶ、非常に勇気のあるキングレコードならではの企画であると言える。

わたしが若かりし頃にも重量盤LPというのが登場し、(クラシックだったが)「音楽の聴きごたえ」という確かな手ごたえがあった。その興奮をノヴェラの「魅惑劇」で体験できるのだ!

確かに¥4,000近い価格設定は痛い(笑)。だが、それでも持っておきたい、と思ってくれたあなたにその素晴らしさを、手ごたえを感じて頂きたいのです。

山本 要三(G) コメント

現在2019年1月、今から39年前の同じ1月のこの時期にデビュー・アルバムの“妖精の森”のレコーディングがスタートした。その前年から相当ハードなリハーサルを繰り返して臨んだが、私も含めメンバー皆、初めての本格的なマルチ・レコーディングだったので、とても緊張したのをよく覚えている。

事前にマルチ・トラックのシートを作成して、ダビングをどう進めるのか?とか色々と計画を練ったりもした。

キングのスタジオではスタッフの皆さんがとても暖かくて、ソロのレコーディングの時には、照明を落として雰囲気を作ってくれたり、冗談も頻繁に飛び交い、とても有難かった。

また、メロトロンを初めて見て、内蔵のヘッドを皆でクリーニングしたり、更には御大の寺内タケシ氏が見学に来られたりと、本当に楽しいレコーディングだった。 そして、あれから、あっという間に39年が経った!“光陰矢のごとし!”

今でも、あの頃の事は鮮明に昨日の事のように思い出す今日この頃なのです。

兎に角、今回のアナログ復刻は素直に喜びたい気持ちで一杯です。

清水 義央(G,Bouzouki)

「夢の丘」がリリースされた1991年、私は34歳だった(ちなみに現在は61歳)。

1988年にドラマーが山本治彦氏から村石雅行氏に、1989年にはベーシストが松元公良氏から三枝俊治氏に代わった。そして、1990年にツインキーボーディストのうちの一人である佐橋俊彦氏の代わりに光田健一氏が加入し、新しいKENSOが始まったように思う。私が個人的に「夢の丘バンド」と呼んでいるこのラインナップは途中に2年半の活動休止期間を挟んで約13年続くことになる。

もう一人のキーボーディスト・小口健一氏が「あの頃の清水さんは次々に新曲を作っていた」と回想していたが、才気煥発なメンバーを得てバンドが加速してゆく実感に後押しされて、確かに私の気持ちは高揚し、創作意欲が高まっていたのだと思う。毎日の診療(私は歯科医です)に加え、この時期は岡山大学医学部の研究生であったため、とにかく忙しかった記憶があるが、新横浜~岡山の新幹線の車内でも曲のアイディアが次々に湧いてきて五線紙に採譜したことを覚えている。

多くのファンが最高傑作として「夢の丘」を挙げる。

久しぶりに聴いてみると、自分がこんな作品を作れたことが信じられないくらい 物凄いエネルギーが内包されていることを感じた。そして、私以外のメンバーがみんな20代だったからだろうか、若々しい疾走感に溢れている。メンバーそれぞれがこのバンドに可能性を感じ、自らの才能とパッションを惜しみなく注ぎ込んでくれたのだろう。本当に有難いことだ。

本アルバム制作において全てを出し切ってしまった私は、アルバム・リリース後のライブを数回行ううちに、他のメンバーの演奏力に圧倒され、ついにはリーダーとして「夢の丘バンド」を率いていく自信を喪失、前述のように活動を休止した。活動再開後、同じメンバーで「Esoptron」「天鵞絨症綺譚」を作成し、その後ドラマーが小森啓資氏に代わって「うつろいゆくもの」「内ナル声ニ回帰セヨ」を作った。いずれもその時点での全てを注ぎ込んだ、そして遺せたことを誇りに感じる作品だが、それらを作っている時も、「夢の丘」は私の前に屹立し、私はそれを超えることを心のどこかで意識していたのではないかと思う。

1970年、大阪万博の年に中学1年生だった私は、言うまでもなくアナログLPで浴びるようにロックを聴いて育った世代だ。CDでしかリリースされていなかった「夢の丘」が、 LPになった時に、どんな風に聴こえるのかとても楽しみだ。

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