自分は人と違うと気づいてしまった人は、社会の中でどう生きていくのか 映画「空の瞳とカタツムリ」斎藤久志監督インタビュー

女の子を女の子のまま大人にしてくれない社会

物語は、美術大学を卒業して間もない同級生、岡崎夢鹿と高野十百子を中心に進む。祖母の遺した古いアトリエで作品を作り続ける夢鹿は、消えない虚無感を埋めるため男なら誰とでも寝るが、一度寝た男とは二度と寝ない。一方、十百子は極度の潔癖症で、男性すべてを拒絶し、夢鹿としか性的な関係を持てない。夢鹿は彼女に想いを寄せる同級生の吉田貴也とセックスした後に「十百子と寝て。あの子を女にして」と吉田を冷たく突き放す。

斎藤 この映画は、最初に相米監督が残したタイトルと2人の女の子の物語という設定だけがあって、そこから美早さんが脚本を書き上げました。彼女の構想を聞いている時に、僕は大島弓子の少女漫画を連想したんです。それから美早さんも大島弓子を読み直したそうです。

僕は大人になってから初めて大島作品を読んだのですが、十代の女の子がこの世界観を理解しているのかと思うと、女性に対する畏敬の念を感じましたね。それからずっと願望として彼女の代表作の1つである『バナナブレッドのプディング』を映画化したいという思いがあったんです。ただ、大島さんの世界って、生身の俳優が演じるのはとても難しいので実現できなかったのですが、今回、美早さんの脚本を読んで、こういう形ならできるんじゃないかなって思いました。

「女の子を女の子のまま大人にしてくれない社会に少女漫画という手法で果敢に挑み続けた孤高の漫画家・大島弓子さんの作品群は僕のバイブル」だという斎藤監督は、この映画が、『バナナブレッドのプディング』の最後のシーンにおける重要な問い「男に生まれたほうが生きやすいか、女に生まれたほうが生きやすいか」の答えを出す作品になるのではないかと、密かに思いを込めたという。

斎藤気づかなければよかった、気づいてしまったらもうそのことを無視しては生きていけないということってありますよね。世の中は社会のルールを当たり前のように受け入れて疑問を持たない人の方が大多数だと思うんです。でも、例えば十百子のように潔癖症だったり、夢鹿のようにセックスが承認欲求の手段でしかなかったり、自分は人と違うと気づいてしまった人は、社会の中でどう生きていくのか。

大人になるというのは誰かに合わせて生きるということでもあるんですが、果たしてそれが本当に幸せなことなのかどうかはわからない。美早さんが「何者でもなかった頃の自分は気高かった」と言っていたんですが、この映画は、世の中に自分のような人間はたった一人なんじゃないかと感じてしまう人が、そのままの自分としてどう生きていくのかを描いた物語なんだと思います。

僕自身についていえば、表現なんかしない人間になりたいと時々思うことがありますね。普通に女房子供がいて、子供の成長をビデオで撮ったりしながら、日常を過ごすようになりたいと思うんですけど、そういうふうには生きてこなかったから。

どうやったら相手の心と繋がることができるのか

夢鹿は十百子の男性恐怖症を克服させるため、ピンク映画館の受付のアルバイトを紹介する。十百子は行動療法のような毎日に次第に鬱屈していくが、映画館で男性相手に身体を売っている一人の青年、大友鏡一に出会う。社会の外れで生きる鏡一と十百子が互いに共感していくところから、物語は新たな局面を迎える。

斎藤僕は意識してませんでしたが、映画を観た人から「懐かしい。ロマンポルノみたいな映画だね」という感想を聞いて、ああ、そうなのかなと思いました。ロマンポルノって裸が出れば何をやってもいいという所があって、中には、自分の性をモチーフに社会と向き合う女性を描いたものがたくさんあった。もともと男性の性処理を目的としていたポルノから、その対象だった女性が「私たちだって人間だ」と異議を訴えるような作品が作られたんです。そういう作品とは確かに通底するものがあるのかなと思います。ロマンポルノは時代の徒花のようなものだったかもしれないけど、その後の日本映画を支える監督をたくさん輩出したという側面もあります。

カタツムリの恋矢に刺されるように、登場人物たちはセックスによって傷ついていく。荒井美早は「どうやったら心が手に入るのか」という問いを脚本に込めているが、それを斎藤監督はどのように映像にしていったのだろうか。

斎藤心なんて見えないじゃないですか。例えば90年代に女子高生による援助交際が流行っていた時、自分の価値をお金に置き換える時代があった。そうすることで、いくらセックスしても心はすり減らないと思ってやっていたんだと思いますが、やっぱりどこかすり減る部分はあったと思うんです。

どうやったら相手の心と繋がることができるのか。それはわからないですよね。たとえ結婚して子供が生まれても離婚するかもしれない。だから、心というものは一生手に入らないものなんじゃないですかね。

映画と小説を比べた場合、映画には小説のような地の文章がないから、たとえモノローグであっても、それが本当の気持ちなのかどうかわからないんです。もともと人間は嘘をつくものだし、自分の気持ちすら自分でもわからないことはありますよね。例えば、ふっと涙が出た後で、あっ、いま自分は悲しかったんだって思うこともある。映画という表現は、作った後に、ああ、自分はこういうことを考えていたんだって気づくことがあって、そういうことの繰り返しなのかなという気がします。

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