被害と加害の二重性から逃げず

加納実紀代さんを悼む

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江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

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出版を祝う会での加納実紀代さん(左)と筆者(「加納実紀代さん出版記念会実行委員会」提供)

 2月22日、女性史家の加納実紀代さんが亡くなった。満78歳。持病の肺気腫の進行に加え、昨年5月、すい臓がんが判明した。もがき苦しみながらも、11月には新刊『「銃後史」をあるく』(インパクト出版会)を出版した。500ページに及ぶ大冊で、フェミニズム批評家でもある加納さんの思考の広がりと深まりが俯瞰できる論考集である。

 11月17日、出版を祝う会が川崎市のホテルで開かれた。社会学者の上野千鶴子さん、ジェンダー研究の井上輝子さんらの呼びかけで48人が参集した。多彩な顔ぶれは、女性学、ジェンダー史学、文学といった隣接分野の人々とも交流を重ね、議論を闘わせてきたゆえの人脈の広さ豊かさを示し、次世代へのバトンタッチもできていることをうかがわせた。

 お祝いの会なのに、みんなにお別れを告げる心づもりだったのだろうか、和服姿の背筋をシャンと伸ばし、時折柔らかな笑みさえ浮かべていた。

 この日のハイライトは、「『平和』表象としての鳩と折鶴」という新構想のプレゼンテーション。パワーポイントを使い、約30分の熱のこもった講演だった。鳩と折鶴が「平和」の表象になるまでの歴史をたどり、しかし、8月15日に靖国神社で白い鳩が放たれ、折鶴が奉納されるなど、「右」に回収されたと指摘し、「平和」の多様性と表象の政治学にまで踏み込んだ。いずれはこのテーマで書きおろして1冊にまとめようと、病床でも資料を読み込んでいたというが、かなわなかった。

 加納さんの仕事といえば、まず『銃後史ノート』戦前・戦後編あわせて18冊の刊行が挙げられる。在野の女性史研究グループ「女たちの現在(いま)を問う会」に集まった人々との共同研究で、1976年から20年に及んだ。

 もっぱら戦争の被害者として語られてきた女たちが、戦争中、国防婦人会などの女性団体で生き生きと活動し戦争に協力したことを、新聞などの資料にあたり、聞き取りを重ねて論証した。被害と加害が重層しているという視点は、以後の女性史研究に大きな影響を与えた。

 もう一つの大きなテーマは原爆問題だが、銃後史を問い続けた地平と重なりあい、問題意識は連続している。

 5歳のとき広島で被爆、父は爆心から500㍍の地点で死んだ。戦後は母、兄との貧しい暮らしがあり、被爆者であることは、結婚、出産という人生の節目のたびに彼女を脅かした。しかし研究に取り組む中で、父が陸軍軍人で、自分が韓国ソウルの陸軍官舎で生まれたという出自と向きあうことになる。

 原爆の被害者でありながら、侵略者の子であるという加害者性から逃げなかった。二重性を直視することで思考を深めていった。従軍慰安婦問題や徴用工訴訟が日韓関係を揺るがしている今こそ、加納さんの真摯な姿勢は重い意味を持つ。

 広島への原爆搭載機が発進したテニヤン島、初めて原爆実験が行われたアメリカのトリニティ・サイトにまで足を運んでいる。そのあとに東日本大震災が起こり、福島第一原発事故が発生した。

 彼女は震え、怒る。被爆国がなぜ原発大国になったのか、ヒロシマはなぜフクシマを止められなかったのか。慚愧の念にせかれつつ、あらためて「核」を軸に戦後史の検証に取り組んだ。その応答が2013年刊行の『ヒロシマとフクシマのあいだ』に詰まっている。

 出版を祝う会で質問に答える加納さん(「加納実紀代さん出版記念会実行委員会」提供)

 天皇制も早くからこだわったテーマだった。論集『女性と天皇制』やアンソロジー『思想の海へ 反天皇制』を編み、フェミニズムの視点で天皇制を問うた『天皇制とジェンダー』もある。代替わりと新元号の実施を見届けたかったとつぶやいたと伝え聞いているが、どんな言葉を発するのか、聞きたかったし、読みたかった。

 仕事の幅は広く、奥行きも深い。地域女性史編纂にも貢献した。わたしがともに編纂事業に関わったものだけでも、神奈川県の女性史『夜明けの航跡』『共生への航路』『多摩の流れにときを紡ぐ』がある。ノンフィクションから女性史研究へ、異分野に迷いこんだわたしは3冊の編纂の過程で教わることが多かった。

 銃後史の研究者らしく「絨毯爆撃でいこう」とハッパをかけられた。根こそぎ史料を集めようという意味である。史料批判の大切さも学んだ。

 わたしは戦後の広島で原爆文学に出会った。加納さんとヒロシマを共有したことで、1995年のシンポジウム『女がヒロシマを語る』の開催から、同じタイトルの記録の刊行まで協働した。

 川崎の自宅と箱根の仕事場を車を飛ばして往復し、特任教授を務めた新潟の敬和学園大学に通い、広島や沖縄をたびたび訪れた。海外にも出かけた。クアラルンプールからシンガポールまでのバス旅は、戦時中の日本軍の進軍による加害の跡をたどるためだった。現場に立ち、文献では読みとれないものを見て、聞いて、独自の思想に収斂させた。誰よりも「行動するフェミニスト」だった。

 研究会に「女たちの現在を問う会」と名付けたように、歴史研究にとって現在に対する問題意識が大切であると、繰り返し強調した。スマホから目を上げて「現在」に疑問を持ち、歴史に学ぼう。そして、変えてゆこう。そう若い人たちに呼びかけている(松井久子編『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』)。

 同時代に生まれて、こういう人に出会い、近い場所でその力強い仕事ぶりに接することができたことを、しあわせに思う。(女性史研究者・江刺昭子)