『あちらにいる鬼』井上荒野著 名前のつかない絆の行く末

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 どことなく、イラッと来る人たちなのである。夫と子供を捨てて一緒になった男に飽き飽きしている女。旅先で彼女から主導権を奪い取り、マイウェイとマイペースをゴリ押しする男。基本的に、夫の言うなりになることを、自分で選び取っている女。彼女に取り入ろうとするも、第二子の妊娠を告げられ、あわてふためいて電話を切る男。電話が鳴ろうと、洗濯が終わろうと、身動きひとつしない家政婦。冒頭の登場人物描写だけで、この本は読み手の感情を絶妙に逆なでしてくる。ただならぬイントロで始まる本書は、著者の一世一代の意欲作である。

 作家・井上光晴と、同じく作家の瀬戸内寂聴の道ならぬ恋を、本書は描いている。その著者が井上の実の娘であることが、この本を「話題作」たらしめている。帯には、こうある。「作者の父 井上光晴と、私の不倫が始まった時、作者は五歳だった。瀬戸内寂聴」。そのセンセーショナル具合を売りにした、話題先行の一冊なのかと思いきや、そんな安易な予測はすぐに裏切られることになる。

 著者の筆致は、実に細やかだ。寂聴をモデルとする「みはる」と、著者の母親をモデルとする「笙子」の語りで構成される本書は、出来事の鮮烈さよりも、それぞれの心象風景を描きこむことに重きを置いている。2人の間を行き来する男の名は「篤郎」。笙子は、篤郎とみはるの「始まり」の時期を明確に知っている。彼が彼女に逢いに行く夜も、そうであることを明確に知りながら、でも暴れることも問いただすこともしない。篤郎には篤郎の価値基準があり、その物差しは一般(とされる)人たちのそれとは大きく違うことを、そしてそれがうまく説明がつかないことを、笙子は知っているのだ。

 みはるの方にも、みはるの心情がある。篤郎に妻があることについて、彼女もまた、取り乱すことはない。もっと崇高な何かで結ばれている、と思っている。それは、「書くこと」である。自らが書いたものに、篤郎が赤字を入れる。それが発表されることに、この上ない高揚を感じる、みはる。

 自分と相手との関係が、他の誰にも成しえないものであることを確認するとき、人の心は高鳴る。あの夫婦や、あの親友たちや、あの恋人たちとも違う何か。私とあの人にしか、到達できない関係。そのことが、笙子やみはるを支えている。

 ……と、ここまでが主要登場人物たちの初期設定である。物語は、1966年から2014年までの日々を描く。どんなに崇高に思えた絆も変わる。3人の均衡に、別の男や女が加わったりする。あらゆる軌道を描きながら、女たちはそれぞれの道のりをゆく。変わらないのは男のみである。別の女ができれば、そっちに大いに気を取られながらも、嘘を重ねて、笙子とみはるを手放しはしない。別の女がいることを、むしろ積極的に匂わせながら。

 やがて、他者に合わせるのではなく、自分が望む人生のために、みはるは出家を選ぶ。描かれるのは、性愛でも友情でもない絆。名前のつかない絆だ。みはると笙子の間にも、名前のつかない絆が芽生える。篤郎と笙子の娘は育ち、いつしか「書くこと」を選びとる。彼女は一心に書く。一人称で語る。母の思いを。父の恋人の思いを。そして、ひとつの真理にたどり着くのだ。人生は、語られないことでできている。

(朝日新聞出版 1600円+税)=小川志津子