反核9の日座り込み あす40年 時代とともに441回 幅広い層の「広場」に

 核廃絶を求め被爆地長崎の市民らが平和公園で取り組む「反核9の日座り込み」が9日、開始から40年を迎える。労働団体を中心に始まった静かな訴えは、時代の経過とともに幅広い層の市民を取り込みながら進展。被爆者や平和活動家、高校生らが「共闘」し、互いの平和活動を報告する場としても役割を果たす。
 「われわれだって被爆者ですから、反核の思いは参加する皆さんと一緒です」。被爆未指定地域で長崎原爆に遭った「被爆体験者」の第2陣訴訟原告団長、山内武さん(75)は2011年10月9日に初めて座り込みに参加。8日後に迫った長崎地裁での第1回口頭弁論に向けて、マイクを手に所信を表明した。
 原爆投下当時は2歳3カ月だったが「空爆の音や原爆の光への恐怖心は今も鮮明に覚えている」。不戦や核廃絶の願いは同じ。毎月9日は諫早市の自宅から車で30分以上をかけて平和公園へと足を運ぶ。訴訟は最高裁へ上告中で、8年目を迎えても解決に至っていない。「たとえ訴訟が終わったとしても、体が続く限り座り続けるつもりですよ」
 座り込みの契機は原子力船「むつ」の佐世保入港だった。当時の県労評組織局長の矢嶋良一さん(77)が継続的に廃船を求める運動として提唱し、入港から5カ月後の1979年3月16日に開始。毎月16日の運動は当初から労働団体の動員者ばかりで、悪天候で数人しか集まらない日もあった。むつが出港した82年8月以降は核廃絶を掲げて、8月を除く毎月9日に継続。90年代後半ごろには被爆者や被爆2世らも多くが加わっていた。
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 被爆者の山川剛さん(82)は公立小学校教諭を退職した97年4月から参加。74年から続ける「核実験に抗議する長崎市民の会」での座り込みと並行して、毎月9日の運動も欠かさない。「動き回る運動と違い座って訴えるスタイルは幅広い世代の参加を可能にする。だが必ずしも大規模である必要もなく、横断幕を持つ2人さえいれば運動は成立する。息長く続けられる」と意義を強調する。
 米中枢同時テロに東京電力福島第1原発事故…。2000年代に入り社会情勢が激変する中、座り込みには高校生や被爆体験者も集い、平和活動を報告し合う環境が整った。9日の平和公園は決まって、熱のこもったスピーカー音が響く。
 これまで積み重ねた座り込みは通算441回。矢嶋さんは「当初からの参加者はほぼいないが、運動が一定定着し市民が語り合える『平和の広場』となった」と現状をみる。また17年7月に国連で核兵器禁止条約が採択されたのを契機に、世界的な核廃絶の潮流が生まれた。「条約が誕生するまで運動に実感が持てなかったが、今は違う。40年間の中で一番元気がある」と進展を見据える。核廃絶が実現するまで、被爆地から何度でも訴え続ける。

約30人が参加した1回目の座り込み=1979年3月、長崎市の平和公園

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