戦時下の外交官吉田茂・検挙事件 戦争収束に動いた親英米派外交官の苦闘

外交官で後に首相も務めた吉田茂(出典:Wikipedia)

敗戦必至と憲兵隊の取締り

戦前の英米派外交官吉田茂(後の首相)の戦時下における反軍思想とその苦闘を考える。

太平洋戦争は日本敗北に大きく傾いていた。昭和20年(1945)4月1日、米軍は艦船1457隻を総動員し、総兵力18万3000人をもって、沖縄本島の嘉手納海岸に上陸するとともに、進攻を開始した。4月12日には、<日本連合艦隊の第二次総攻撃が開始され、沖縄侵攻の米軍の損害は甚大となり>、との外電報道(虚報)は大本営の決戦思想をかき立てていた。これに煽られるように国内の報道機関(新聞・ラジオ)も一斉に沖縄決戦を高唱して、戦局の実相を知らされぬ国民は、神頼み的に戦勢の挽回を信じ、かつ期待していた。軍部の暴走が続く。

米軍機による軍需施設のみならず主要都市への無差別爆撃の激化と極端な食糧難という現実に、国民の生活は精神的にも肉体的にも疲労困ぱいの極に達していた。それは同時に、戦争の長期化と苛酷さに耐えられなくなった証である。人間としての限界を示すものであった。以下「日本憲兵正史」(全国憲友会連合会本部刊行)などを参考にし、一部引用する。

「日本憲兵正史」は記述する。「憲兵も人間であり、戦時下の苦しい生活は民衆と少しも変わらない。国民の苦しみを理解することは出来るが、さりとて軍人としては戦争遂行への職責を果たさなければならなかった。ともすれば崩れがちになる戦争意欲は、やがて厭戦気運を運生みがちであった」。
「これに対して、憲兵は国民の反戦思想から平和思想への拡大を恐れ、それらの流言飛語に対する取り締まりを強化しなければならなかった。しかしながら、軍部がいかに決戦を叫び、国民の士気を高めようとしても、既に国内ではひそかに戦争終結への工作を進める一群があった。それらが一般国民ならば、単に軍事上の造言蜚語罪として取締る程度であったが、これが元首相らの重臣及び外交官、さらに国内親英米派となると様相を一変してくる」。

憲兵隊本部(現東京・千代田区、国立国会図書館資料)

吉田ら親英派の検挙

昭和20年2月14日、宮廷へ参内して単独上奏した公爵前首相・近衛文麿は、天皇に対して戦争終結と軍部の粛清を訴えていた。この時に天皇に奉呈されたのが、世に「近衛上奏文」といわれるもので、近衛公が敗戦よりも共産革命を恐れていたことが明らかにされている。しかも、この上奏文は、既に陸軍省軍事資料部が大磯の吉田茂邸にスパイを放って、ひそかに上奏内容を盗写していた。だが、近衛公が天皇に戦争終結を上奏したからといって、憲兵がこれを取締ることはできない。しかし、この内容の一部が利用され、巷間反戦的言動となって流布されたため、憲兵は動かざるを得なくなる。

陸軍省からの要請によって、憲兵が注目した人物が、吉田茂、池田成彬(しげあき)、原田熊男、樺山愛輔、岩淵辰雄、殖田(しょくだ)俊吉らであった。これらの知識人はそれぞれ宮中、財界、法曹界、マスコミに連なる親英派といわれる一群である。このリベラルなグループが近衛公に近い関係であることは既に明らかにされていたので、4月15日早朝、憲兵隊は吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄らを検挙した。だが、吉田検挙の際、大磯の吉田邸に隠されてあるはずの近衛上奏案(吉田茂が筆写したもの)は発見されなかった。吉田の内妻こりんが素早く帯の間に隠し、後に焼却したといわれている。吉田茂は昭和20年4月から40日間憲兵隊によって監禁される。

吉田グループの検挙の理由は、近衛上奏文の内容の一部にせよ流布したことと、反軍言動があったが、もう一つは、軍の編成装備を漏らした軍機保護法違反である。犯罪容疑としてはものものしいが、単にこれだけのことである。だが、これが一般国民ならば大きな影響はないが、近衛公に連なる吉田親英派グループだけに大問題とされたのである(事実、この検挙事件をほとんどの国民は知らなかった)。

一方、憲兵隊の取調べを受けた吉田茂は、当初頑強に容疑事実を否認したが、最後はあっさりと容疑事実を認め、5月3日に東部軍事法会議に送られた。憲兵隊留置の間、憲兵は老齢の外交官・吉田茂を丁重に取扱い差し入れなどは自由に許可した。

留置所の処遇と戦後

この事件は、敗戦後、華々しく政界に登場した吉田茂が、戦後の日本再建にワンマン老首相として活躍したため、民衆の軍への反発とともに、憲兵隊の暴挙として誇大に記され語り伝えられた節がある。

吉田茂に言わせると、憲兵隊の取扱いには大分参ったようである。吉田茂が憲兵隊に検挙された当初、留置場には、米空軍搭乗員の負傷者(捕虜)が数人入っていた。留置場が一杯でやむをえ得なかったのだろうが、この負傷兵と一緒に留置された吉田茂はさすがに居心地が悪かったという。もっとも2~3日間のことであったが、この後の憲兵隊の扱いも悪くなかったとされる。

同年5月3日、吉田は代々木の陸軍刑務所に収監されたが、刑務所長田代敏雄大尉が、それとなく吉田を優遇した、とされる。しかも、5月25日の東京空襲で刑務所が焼失した時、脱出しようとした米空軍捕虜数人が殺害されたため、戦後、田代所長はその責を問われて、戦犯として処刑されるところであった。それをGHQと交渉して助けたのが吉田茂である。田代所長は死一等を減じられて無期刑となり、釈放後は僧侶となって、太平洋戦争時に戦死または刑死した人々の冥福を祈った。

吉田茂の反軍思想

当事者である吉田茂の追想を聴こう。「回想十年 第一巻」吉田茂」から引用する(原文のママ)。
「<自由主義者の烙印>
戦前私は軍部から自由主義者、親英米派ということで睨まれたが、その折紙をいただいたのは、昭和11年(1936)、例の2・26事件直後に廣田内閣の出来る時である。私は本来政治向きのことは好きではなかったし、従って関係したこともなかったのだが、この時は、貴族院議長だった近衛文麿公に依頼され、後継総理の候補として廣田弘毅君の引出しの使者に立った。そして私は廣田君に出馬を勧めた行懸りから、組閣本部に入って閣僚銓衡(せんこう)の相談に参画することとなったが、その関係で私も外務大臣候補として挙げられていたようだ」。
「ところで閣僚候補の顔触れがやっと出揃った翌日、陸軍大臣の候補として軍部が推薦していた寺内寿一大将が山下奉文少将(後の大将)を始め陸軍省の幕僚数名を引き連れ、当時外相官邸だった組閣本部に乗り込んできて、『新聞に出ている閣僚候補の顔触れなるものを見ると、現時局に好ましくない人物の名前が見えるが、そのような人物の入閣には、陸軍は飽くまで反対する』と申し入れてきた。軍の反対する人物の一人が私であることは明らかだったので、私は組閣の手伝いから直ちに手を引いた。結局、司法大臣候補の小原直、文部大臣の下村宏、それに私との3人が、自由主義者とか親英米派とかいう理由で、軍部から忌避されていたことが後でわかった」。
「<駐英大使としてロンドンへ>
廣田内閣への入閣に落第した義理合いからであろう、廣田総理の推薦で同年4月私は駐英大使としてロンドンに赴任することとなった。当時の世界情勢は、ドイツではヒットラーの率いるナチの勢いが漸く最盛期に入らんとしており、欧州の勢力分野も、いわゆる独伊枢軸と英仏側の対立が漸く濃厚ならんとしていた。またわが国内情勢は例の2・26事件の直後であり、陸軍は粛軍とは名のみで、実際には社会不安や国民の恐怖的心理につけ込んで、極端な国家主義者や対外膨張論者を利用し、国際的には枢軸側に加担して、反英仏、ひいては反米的色彩をますます鮮明にしてきた時代であった」。
「<説得にきた駐在武官>
その頃わが国では独伊との防共協定に加盟することの可否が問題となり、政府も陸軍の勢力に押されて、協定締結に肚を決めていたようである。ところがそれについて一応在外大公使の意見を徴することとなったらしく、私のところへも賛否の意見を問い合わせてきた。そこで私は防共協定には反対だと返事してやった。その後も辰巳栄一駐英、大島浩駐独の両陸軍武官がやってきて私を説得にかかったが、私はどうしても自分の所信を枉げる気にはなれなかった。私が防共協定に反対したわけは、軍部の言い分では、これは単なる反共というイデオロギーの問題に過ぎないというのであるが、それは全く表向きの言葉で、肚のうちは、独伊と結んで英仏、ひいてはアメリカ側に対抗しようとしたものであることは明らかで、結局この枢軸側への加担は遠からず政治的、軍事的なものにまで発展するに決まっており、その勢いの赴くところ、わが国の将来にとってまことに憂うべきものとなることが、私には感得されたからである」。
「しかし、こうした私の心配や反対などにはお構いなく、ドイツとの防共協定は成立し、ついでイタリ―(イタリア)も加わり、更に協定が強化されて、後には軍事同盟にまで発展したことは、周知の通りである。それはともかくとして、そうした頑固な反対をしたため、私はいよいよ以て反軍思想の持主という烙印を軍部から捺されたらしい」。

安倍内閣の麻生太郎・財務相は、自由主義者・「ワンマン首相」吉田茂の孫である。

参考文献:「日本憲兵正史」(全国憲友会連合会本部刊行)、「回想十年 第一巻」(吉田茂、新潮社)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)

 

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