二重被爆の体験語る 長崎の田平寛幸さん 記録映画の取材に協力

今も脳裏に焼きついた広島、長崎での被爆体験を語る田平寛幸さん=長崎市江川町の自宅

 広島、長崎で連続して被爆した「二重被爆者」は、長崎市の故山口彊(つとむ)さんらが知られている。山口さんの記録映画などを手掛けた東京の映画監督、稲塚秀孝さん(68)は先月、新たに同市江川町の二重被爆者、田平寛幸さん(88)を取材。広島で被爆し長崎でも入市被爆した体験を聞き取った。語り部活動などをしていない田平さんは「役目を果たしていない気がして。できることがあれば」と話す。
 戦時中、田平さんは長崎市の三菱重工業長崎造船所に勤めていた12歳上の兄夫婦と同居。兄の転勤に伴い、1945年6月に兄弟2人で広島市南観音町の社宅に転居した。旧制中学3年、15歳だった。
 8月6日朝、社宅で寝ていたところに「青白い閃光(せんこう)と地響きのような音、ものすごい爆風に見舞われた」。爆心地から3.1キロ。肘や膝にけがを負ったが、出勤していた兄は無傷で戻った。治療してもらおうと近くの軍施設を訪れたが、「これぐらいの傷を治療している間はない」と相手にされなかった。「皮膚が焼けただれたり、大けがで胸がえぐれたりした人が治療を求めて押し寄せ、長蛇の列だった」
 同13日、兄と一緒に汽車で長崎へ。道ノ尾駅(長崎市)で下車し、爆心地近くの浦上などを歩いて、同市平戸小屋町の自宅に向かった。「三菱長崎製鋼所(茂里町)付近で残り火が赤々と燃えていた。道端には焼け焦げた遺体があり、辺りは一面の焼け野原だった」と振り返る。
 現在、二重被爆者の正確な人数は不明。稲塚さんは、氏名が分からない人を含め144人(故人含む)を確認済み。長崎市は市内在住の15人を把握しており、二重被爆者のテーマでは3作目となる記録映画を製作中の稲塚さんは、取材協力を求める手紙を市を介して各人に送付、田平さんが協力を申し出た。
 稲塚さんは「二重被爆が本人の中でどのような意味を持つかを知り、伝えることが追い求めているテーマ。一人でも多くの二重被爆者を取材したい」として、協力を呼び掛けている。

 


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