東日本大震災8年、奇跡の子が歌う希望

 福島・浪江の小さな音楽会

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高橋宏一郎

共同通信記者

高橋宏一郎

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1965年生まれ。社会部出身。東日本大震災後の2012年から福島支局長、仙台編集部長として震災原発事故報道に携わった。

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山田貴翔君と母みゆきさん。この8年、2人きりで必死に生きてきた

 東日本大震災発生の4日後に生まれた奇跡の子の歌声に、集まった皆が胸を熱くし、涙を流した。震災と東京電力福島第1原発事故から8年の3月11日、福島県浪江町のカフェで開かれた小さな音楽会。亡き人々に思いをはせ、ここまでの年月を振り返り、未来への希望を確かめ合った集まりだった。(共同通信=高橋宏一郎)

 奇跡の子は、福島県郡山市の復興住宅に母山田みゆきさん(38)と2人で暮らす貴翔(たかと)君(8)。震災と原発事故の激動のさなか、2011年3月15日に生まれた。

 みゆきさんは子宮の病気が原因で「子どもは授からないだろう」と医師に言われていた。しかし夫がオートバイの事故で急死した2週間後、身ごもっていることを知る。その新たな命が貴翔君だ。

 出産予定日が近づいていた11年3月11日、浪江町の実家で大きな地震の揺れに遭った。かかっていた南相馬市の病院へ。「きょうへい先生」と地域で慕われていた高橋亨平医師が、津波犠牲者が次々運ばれる遺体安置所で徹夜の検視作業をしながら、みゆきさんを診た。

 停電し、病院機能が失われる中、放射能の不安も迫っていた。陣痛が始まったみゆきさんは、酸素吸入を受けながら福島市の県立医大病院に救急車で運ばれた。

 帝王切開で貴翔君はこの世に生を受けた。連絡を受けた高橋医師は、自分の孫が生まれたかのように涙を流して喜んだ。

貴翔君の歌詞カードには高橋亨平医師の写真や「ありがとう」の言葉が

 その高橋医師は、がんのため13年1月に74歳で亡くなった。直前まで「お子さんは元気? あなたの出産を通して、僕は医師としての初心を思い出したんだよ」と、みゆきさんに電話をかけてきた。

 父の死と入れ替わるかのように母のおなかに宿り、この世に生まれてきた貴翔君。高橋医師の命も引き継がれている。

 みゆきさんと貴翔君は仮設住宅や、みなし仮設を転々とした。二人きりでこの8年、必死に生きてきた。

 「いま私と貴翔の命があるのは亨平先生のおかげです。いつも空を見上げて思っています」。貴翔君が歌う前、みゆきさんは声を詰まらせながら、そうあいさつした。

 歌は貴翔君が大好きな「翼をください」と「にじ」の2曲。
 

熱唱する山田貴翔君

この大空に翼を広げ
飛んでいきたいよ
悲しみのない自由な空へ
翼はためかせ
いきたい
(翼をください/詞・山上路夫、曲・村井邦彦)

にじがにじが そらにかかって
きみのきみの きぶんもはれて
きっとあしたは いいてんき
きっとあしたは いいてんき
(にじ/詞・新沢としひこ、曲・中川ひろたか)

 大きく口を開けて、懸命に歌った。

 震災と原発事故の4日後に生まれた命が、まばゆい光を放ち、みんな一生懸命生きよう、あしたはきっといい日だよと呼び掛けてくれている。

 20人ほどが集まった小さな音楽会。全員が涙を流して聞き入った。震災後を生きていることの意味を、それぞれがかみしめての涙だった。

 音楽会の冒頭、津波で両親と8歳の長女、3歳の長男を亡くした南相馬市の上野敬幸(たかゆき)さん(46)が参加者の前に立った。

 「きょうも、きのうも、おとといも、朝は4人の遺影におはようと言いました。だから、3月11日は特別な日ではありません」

 次女倖吏生(さりい)さんが貴翔君と同じ震災の年生まれ。今年9月、8歳になる。

震災原発事故8年の思いを語る上野敬幸さん。左は主催者の大和田新アナウンサー

 「震災の年に倖吏生が生まれて、うれしかったけれど、さみしかった。生まれるのを一番楽しみにしていたのが亡き長女の永吏可(えりか)でした。新しい命を喜んでくれる家族がいないのは、とてもさみしいことでした」

 震災のとき小学校2年生で、年齢が進まない永吏可さんの歳に、妹の倖吏生さんが今年追いついてしまう。8年がたつということは、そういうことだ。

 前日、上野さん宅に永吏可さんの同級生5人が花を供えにやってきた。みな高校1年生。大きく成長した同級生を見ると、上野さんは何とも言えない気持ちになる。

 生きていれば、同じように背丈も伸びただろう。津波から子どもを守れなかった自分は、だめな親だ―。

 当たり前のように過ぎる年月は、突然の災害で2人の子を亡くした父にとって、身を切り刻みたくなるような苦悶の8年でもあるのだ。

 だからこそ、上野さんは力を込めて言う。

 「自分と同じ経験を、もう誰にもしてほしくない。震災で何人死んだ、あの日から8年です、なんていうニュースはもういい。教訓をしっかり残してほしい。自然災害が多い日本で、命を守るとはどういうことなのか、一人一人がしっかり考えてほしい。自分や家族の命を守るための行動をしてほしい」

 音楽会は元ラジオ福島の人気アナウンサーで、定年退職後も津波被害や原発避難の取材と語りを続ける大和田新さん(63)が企画した。第1回の昨年は南相馬市の仮設医療で知られる絆診療所の待合室で開いた。

 2回目の今年は紙芝居で震災・原発事故を語り継ぐ活動をしている岡洋子さん(58)が、浪江町の自宅倉庫を改装して昨年オープンさせたカフェを会場にした。

復元された被災ピアノの演奏で、小さな音楽会は進んだ

 一部で避難指示が解除された浪江町だが、避難先での生活が定着したこともあって、帰還する町民は多くはない。それでもみんなの拠点、ふるさとの心の支えになればと開いたカフェだ。

 店内には、いわき市立豊間中学校で津波の被害を受け、市内の調律師遠藤洋さんが1万以上の部品を交換して復元させたピアノが運び込まれていた。人気アイドルグループ嵐が11年の紅白歌合戦で「ふるさと」を歌ったとき、桜井翔さんが弾いたピアノ。それを大和田さんが招いたピアニストが奏で、ソプラノ歌手が迫力の声量で参加者を元気づけた。

 音楽会の最後、みんなで嵐の「ふるさと」を合唱し、午後2時46分、大和田さんの掛け声と町のサイレンに合わせ、黙とうした。

 みんなが不思議に感じることがあった。貴翔君が「きっとあしたは、いいてんき」と歌い終えると、それまで激しい雨が降っていた浪江の空が急に明るくなり、太陽の光が差し込んできたのだ。

 震災後を生かされている全ての人で力を合わせ、さまざまな思いを語り継ぎながら、未来へ希望をはぐくんでいこう。改めてそんな気持ちになった1日だった。