はじめの一歩

 作家の故井上ひさしさんは本名を「廈(ひさし)」と書くが、誰にも正しく読んでもらえなかった。「苦労をさせられた」とエッセーに書き残している。中国・厦門からの連想なのか「あもい」とも呼ばれたという▲読みづらい名もあれば、趣の一風変わった名前もある。森鴎外の長男は於菟(おと)、長女は茉莉(まり)、次女は杏奴(あんぬ)。西洋の名、オットー、マリー、アンヌのもじりらしい▲ドイツ留学の頃、鴎外は本名の林太郎(りんたろう)をうまく発音してもらえず、反動で子どもの名を西洋風にしたと伝わる。子らよ、世界で通じるように、と。今で言う「キラキラネーム」のはしりかもしれない▲極めて個性的なキラキラネームは、時に悩みの種にもなる。「王子様(おうじさま)」の名で18年間生きてきた山梨県の青年は、その名が嫌で「肇(はじめ)」に改めたいと申し立て、今月、家裁に認められた▲元の名には「王子様のような存在だから」という母親の思いがあるが、ご当人はたまに偽名と疑われ、自己紹介すれば噴き出されて、みじめな思いをしてきたという。難読の字を誤読されて-と名前の苦労はいろいろあるに違いないが、その極みだろう▲青年はもうじき大学へ進むらしく、多くの出会いが待っている。「名乗る日」を彼ほど楽しみにする人もなかなかいるまい。出発の春、出会いの春に、こんな第一歩もある。(徹)


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