【夢酒場】金欠を救う氷の微笑 コンビニで下ろせず、携帯落ちる、公衆でかけるも留守番電話

 大学卒業後、小さな編集プロダクションに就職した。

 当時、社内で唯一の友だった同僚男子と飲んだ勢いでケンカをし、口をきかないまま1カ月がたとうとしていた。彼は基本的に温和だが、私同様お酒が好きで、飲むとたがが外れた。

 その日、私は先輩に原稿の書き直しを命じられていた。先輩女史は、「原稿、置きにいって(心のこもらない文でまとめる)んじゃないよ」と低い声で言い、赤ペンを放り投げた。

イラスト・伊野孝行

 一方の彼もまた凡ミスをおかし、女史より「5WIHで説明してくれる? なぜこんなことになるかなー」としぼられていた。

 弱者の絆は、こういう時に強まる。

 夜、私は彼を老舗の沖縄料理店に誘った。彼は一瞬驚き、うれしそうにうなずいた。仲直りの一献がうれしくて笑いがあふれた。テビチにゴーヤチャンプルー、豆腐よう。オリオンビールと泡盛を交互に飲んだ。

 「一緒に出世しようぜ」「反旗をひるがえすのだ」「目指すぞヒット本」などと言い合った。

 一通り食べ、ふと懐具合が気になった。その時点でざっと計算し6千円。二人で財布を開きハッとした。足して5千円と小銭少々しかない。およそ千円足りない。

「私、下ろしてくる」と店を出た。しかし近所のATMは営業時間外だった。コンビニまで走った。しかしカードは使えなかった(当時使えるカードが限定されていた)。

 息を切らし店に戻ると、なぜか彼が泡盛のお替わりをしていた。たががはずれかけていた。

「私のじゃダメだった。君ので頼む」。彼は、「ふぇ。まじで」と千鳥足で出掛けた。

 間もなく彼がにやにやしながら戻ってきた。「……ざんだかぶそく」。 

 われわれの異変にそろそろ常連客が気づき始めた。視線を感じる。

 ここは信頼を取り戻すため、何か注文し余裕を見せたいところ。あくまでポーズだ。ボードに売り切れと書いてあるウミブドウをわざと頼む。

 すると沖縄出身のママは笑顔で、「じゃ明日の分、ちょっとだけ出そうネエ」。ウミブドウは水槽で育っていた。まさか……! 彼は「うまそう」と無邪気に声を上げた。完全に出来上がっている。

 ウミブドウは500円。彼がお替わりした泡盛を足し、計千円の追加債務。

 こんな時、頼れるのは身内だ。都内に住む姉にお金を届けてくれと電話をしようと、携帯を開いた瞬間、充電が切れた。彼はその時、携帯を持たない主義だったから、残す交信手段は公衆電話しかない。私は、携帯で話す演技をしながら外の電話ボックスへ。

 貴重な十円を一枚入れ姉の電話番号を押す。ぶるるっと呼び出し音が鳴り、やがて十円玉ががちゃんと落ちる音。「留守番電話サービスにおつなぎします」。な、なんてことだ。あと残る十円玉は1枚。もう無駄には出来ない。

 青い顔で店に戻った。「だいじょぶっすよ。会社に電話したら誰かいるって。お願いしてみましょう」と彼。その手があったか。再び公衆電話へ。

「はい、○○です」地獄の底につながったかのような不機嫌な声で、社名を名乗り電話に出たのは、あろうことか、くだんの先輩女史であった。震えながらSOS……。

イラスト・伊野孝行

 約1時間後、先輩女史が現れた。「ずいぶんと楽しそうだねえ」。氷の微笑に、反旗などなかったかのようにひれ伏した。

 (エッセイスト・さくらいよしえ)

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