四百年前…津軽でニンニン卍/「弘前忍法帖」筆頭家老・服部康成は忍術使い スパイ?、ねぷた起源説も

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城下町の夏を彩る弘前ねぷたまつり。その起源は忍者・服部康成にあった?=2018年8月5日

 青森県弘前市には、名簿や忍術書、忍者屋敷と思われる古民家など、弘前藩に仕えた忍者「早道之者(はやみちのもの)」の痕跡が残っている。青森大学忍者部顧問で国際忍者学会会員の清川繁人薬学部教授の研究などを基に、陰から弘前を支えた早道之者の歴史を追うとともに、まちづくりや観光に生かす方策を探る。

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 ♪山を飛び 谷を越え ぼくらの町へやってきた-。「忍者ハットリくん」といえば伊賀流忍者・服部半蔵の子孫が活躍する藤子不二雄A氏の漫画だが、弘前にも1600(慶長5)年ごろ頼れるハットリくんがやってきた。

 服部康成(やすなり)。藩祖津軽為信に仕え、幕府が2代目・信枚の後見人に指名。弘前藩から2千石、幕府から千石を与えられ、筆頭家老として、お家騒動で不安定になった藩政立て直しに尽力した。津軽家に信州川中島(長野県)へ転封の話が浮上した際には幕府と直接交渉し、転封を阻止した。元和飢饉(ききん)での領民の救済、岩木山百沢寺(現・岩木山神社)や太平山長勝寺の山門の新築、青森港開港などにも携わり「無類の良臣」とたたえられた。

 弘前ねぷたの祖が康成との説もある。為信が1593(文禄2)年の盂蘭盆会(うらぼんえ)に京で大燈籠(とうろう)を披露したという伝承をねぷたの起源とする説があるが、この大燈籠の発案者が康成だというのだ。年代を考えると信ぴょう性は低いが、こうした説が生まれるほど康成は高く評価されていたのだろう。

 この名家老は、腕利きの忍術使いでもあった。同藩の史書・津軽一統誌に「甲賀忍の達人」「武勇に達する者なる上に忍を得たりしかば…」とある。為信が関ケ原の戦いで大垣城(岐阜県)攻めに参加したころに仕官、城内に潜伏して情報収集や内部撹乱(かくらん)で勝利に貢献したという。

 出自は不明だが、一説では家康に仕えた服部正成(半蔵)の子供または同族という。服部家といえば伊賀の名家なのに甲賀忍と記述されている件について、清川教授は「弘前藩の忍者は後に甲賀流が主流になるので、後世にそう書かれたのでは」と推測している。

 一部では「康成=徳川家のスパイ」説も。津軽家は、石田三成が豊臣秀吉へ取り次いでくれたために津軽の領有が認められたことなどで三成に恩義を感じていたらしく、関ケ原の戦い後、三成の次男・重成、三女・辰姫ら4人を保護し現在の板柳町にかくまった。辰姫は信枚の側室となり3代・信義を産んでいる。津軽家と三成の縁の深さを徳川家側が警戒し、監視のために派遣された忍者が康成だった-とも考えられる。

 とはいえ康成が藩政に尽力したのは事実だ。「康成の行動を見ると、幕府からの使命があったとしても、それとは別に弘前藩を自分の藩と考えて発展させようと努力する気持ちが感じられる」と清川教授は語る。

 康成は1635(寛永12)年に死去。警戒していた(かもしれない)三成の血脈は、皮肉にも康成の遺志を継ぐかのように、藩の諜報(ちょうほう)活動に重要な役割を果たすことになる。