領土戦争の名残り クリントン城 ローワーマンハッタン③

領土戦争の名残り クリントン城

 初代大統領ワシントンの政権が、1789年、ローワーマンハッタンのフェデラルホールで産声を上げたいきさつは、先回ご紹介した。英国との長い独立戦争が終わりアメリカの建国が本格的に始まったのと時を同じくして、大西洋の向こうのフランスでは革命が勃発。ブルボン王朝の絶対王政が倒れている。世界中で社会体制が激変する一方、再び米英両国による領土争いがくすぶり始めた。

 ニューヨークは英海軍の侵攻から街を防衛するために港湾の要所にとりでを建造した。マンハッタンの最南端に今も残るクリントン城(1811年完成)はその一つだ。リバティー島行きのフェリー発着所のすぐ隣にある特徴的な半円形建築なので見覚えのある読者も多いだろう。対岸に浮かぶガバナーズ島のウィリアム城(西のとりで)と対を成し、
「東のとりで」と呼ばれていた。二つの要塞に配備された15インチ砲は、当時としては最新式で、11インチの砲丸をはるかワシントンスクエア公園まで飛ばすパワーがあったそうだ。

もともとは要塞として建てられたクリントン城。バッテリーパークが埋め立てられる前は人工島だったが、埋め立て後にマンハッタンの一部となる。

平和の到来 とりでから移民局へ

 幸い、ニューヨークに「米英戦争(12〜14年)」の戦火は及ばず、自慢の大砲は一度も火を吹くことがなかった。この辺り、53年日本の江戸幕府がペリー艦隊二度目の来襲に備えて江戸湾に急造した砲台「お台場」の不遇な運命と似ていなくもない。両者に共通するのは、防衛した都市のその後の急速な経済成長だ。

 晴れて平時を獲得したニューヨークは国際貿易港としてさらに栄える。以前の主要労働力「奴隷」に代わって海外からの移民が大量に流入。「宝の持ち腐れ」クリントン城も23年にニューヨーク市の管轄となり、名前をキャッスルガーデンと改め、娯楽センターとしてオープン。40年代には劇場や展示場としても利用された。55年からは移民局の入国審査場として活躍することとなり、90年にエリス島が開設されるまで、実に800万人のヨーロッパ人が「旧とりで」を通過し新天地に散って行った。

 エリス島に「玄関」の座を譲ってからは、96年に市営水族館となり、1941年まで営業。46年には取り壊しの危機に見舞われるが、国立公園局が本来のとりでの形に復元し、75年に国定記念物としてオープンし、現在に至る。

蒸気船の時代とブルックリンの繁栄

 波止場を埋め尽くす船舶にも変化が訪れた。18世紀末から19世紀初頭にかけて、ニューヨーク湾内には停泊する遠洋航海用大型スクーナーの脇を縫うようにして、無数のはしけ船や近距離用小型帆船が往来していた。そこに突然、「蒸気船」が登場する。英国でジェームズ・ワットが発明した蒸気機関を人類史上初めて商業船舶に応用したのは、ここニューヨークでの話だ。1807年、アメリカ人発明家ロバート・フルトンが、ニューヨーク〜オルバニー間の河川航路で外輪式蒸気船の運行を成功させたのだ。それを機に、小型帆船はみるみる蒸気船に取って代わられた。

フルトンストリートの名前の由来にもなっている、蒸気船の父ロバート・フルトンの墓はローワーマンハッタンのトリニティー教会墓地(74Trinity Pl.)にある。

 14年、フルトンは、最新鋭蒸気船「ナッソー号」を導入。マンハッタンとブルックリンの間に定期航路「フルトンフェリー」を開通させる。おかげで対岸のブルックリンはベッドタウンとして開発が進む。フェリーはイーストリバーの花形だったが83年のブルックリン橋開通で急速に衰退し1924年に廃業した。今でもローワーマンハッタンとブルックリンにそれぞれ「フルトン」の名を冠した通りがあるのは、この蒸気船の父に由来する。ニューヨークのちっぽけな船から始まった蒸気船が、わずか40年後にはペリーの艦隊となって、太平洋を渡り、浦賀沖に出現。江戸時代の日本人を震撼(しんかん)させ、開国にまで至らしめたと思うと感慨深いものがある。
(中村英雄)

© Trend Pot NY,LLC