福島第二原発の危機対応から学べるもの 第3回 土地を知っていたことが奏功

福島第二原子力発電所における津波の状況(画像提供:東京電力ホールディングス株式会社)

2011年3月11日の東日本大震災で、福島第一原子力発電所と同様に地震・津波の被害を受けながらも、炉心損傷に至ることなく全号機の冷温停止を達成した福島第二原子力発電所。現場指揮に当たったのが、当時所長だった増田尚宏氏だ(現日本原燃株式会社 社長)。危機的な状況の中でも落ち着いて的確に現場をまとめあげたリーダーシップは海外でも評価され、ハーバード・ビジネス・スクールの授業でも取り上げられているという。その増田氏が当時を振り返った。

原子力発電所の敷地内での事故対応については、何度も訓練もしているのですが、資機材を調達するのに不可欠な敷地外の道路が寸断されいたのは、われわれにとって非常に大きなハードルとなりました。通信も全く機能しません。NTTの基地局なども地震の被害により、一斉に使えなくなったんです。携帯電話も、基地局はバッテリーがあるうちは良かったんですけど、そのバッテリーが枯渇した後は全然使えなくなりました。通信手段はほとんど何もなかったです。衛星電話があるのですが、古い衛星電話なので、外に出て衛星に向かって話さないとうまく通じないんですね。「衛星はどこにあるか、そんなこと知るか」というところからスタートです。
次は、福島第一の水素爆発で、外へすら出られなくなりました。外へ出られないので、衛星電話は使えない。衛星電話の使い方を本当にしっかり考えなくてはいけないと思いました。今は、原子力発電所は衛星電話のアンテナを屋外に出し、端末を緊急対策室の中に入れるということを全国的にやっています。

被害を拡大させない

こんな状況の中で総延長9キロメートルにおよぶケーブルを引いているわけですが、実は3号機が生き残っていたので、皆そこから引きたいと言っていたのですが、ここから電気を取ることで、3号機も壊してしまったら元も子もないなと思ったので、絶対に3号機は触るなという指示をして仕事を進めさせました。朝の6時ぐらいにスタートして、ケーブルを引き終えたのが夜11時です。
地元の水も使えなくなりました。原子力発電所は冷却のために水が不可欠なのですが、東京とのテレビ会議で「4000トンの水を送ってください」と頼んだら、東京から送られてきたのは4000リットルでした。飲料水の感覚なんです。「4000トンだよ」と怒ったら、「悪いけど4000トンの水を送るには船が必要で、油を運んだ船だったらあるけど、それに水入れて送っていいか?」と言うので、「ふざけるな。油を入れていたようなタンクに入った水なんか、何が起こるか分からない」と断り、東京に頼らず、自分たちで何とかするしかない、という覚悟をしたことを覚えています。

水中ポンプの設置状況(画像提供:東京電力ホールディングス株式会社)

先人たちの知恵を生かす

一方、私は30年前にここで仕事をしていたときのことを思い出していました。私の上司は、その当時、毎日ドライブのように発電所内の巡視ばかりして「どこそこには井戸があって、そこから水を取っていたんだ」とか「川から伏流水というくみ方で町の中にパイプライン引いてやっていたんだ」とか、あるいは「昔の電気はこうやって取っていたんだ」とか、そんな話ばかりをしていたんですね。そんな話を聞かされては、「俺は仕事をやりにきたんだ」と思っていたのですが、こうした知識が本当に役に立ちました。
「あのときに伏流水というのがあったんだから、ここからのパイプラインが残っているはずじゃないか。そこをちょっと調べろ」という指示をして行かせたら、本当にあったんです。ただし、水を入れろと言って入れさせたら、パイプラインが津波でやられて穴だらけで、水が途中吹き出してしまい使い物になりませんでした。ところが、ここはやっぱり昔の人の知恵というか、年配の方が、「自転車を壊していいかい?」と言ってきたので、「いいですよ、何でも壊してくださいよ」と言ったら、流木を削って、そこに栓をして、自転車のチューブをぐるぐる巻いて直してくれました。こんな知恵を使いながら水を復旧させています。
最初に4000トンあった水はどんどん減っていきましたが、こうして水源を確保したことで、電源車でモーターを回しながら、パイプラインを使って水が送れるようになりました。しかし電源車というのは便利なようで不便です。2時間から3時間に一回油を入れないと動かないんですね。電源車を10台持っていって作業をしていたのですが、福島第一が爆発した後は、その作業を延々と放射線の環境下でやってもらうことは無理だと思ったので、次に、東北電力さんの管内に入って東北電力の電柱から電気を取ってきてくれという指示をしています。「そんなことできるわけじゃないですか。東北電力ですよ、ここは」と言われましたが、配電の支援に来てくれた東京のスタッフが本社の配電担当に言って東北電力に連絡してくれ、折衝した結果、OKを出してもらいました。本当に「東電(トウデン)ならぬ盗電」です。これができたので、ずっと水をキープできるようになったというのも非常に大きなところです。

できないことずくめ

ようやくモーターが届いたのですが、現場に持って行こうにも、道路ががれきでいっぱいで持って行けないんです。ブルドーザーを運転できる人はいないし、関連企業の方々は現場から避難しろという指示が出されていたので頼めない。そもそもクレーンが使える人がいないので、届いたモーターを現場に下ろせない、ようやく下ろしたら、今度はそれを持って行けない。ようやく現場まで持ち込んだら、今度はケーブルがつなげないなど、もうできないことずくめでした。
とにかく、このモーターを設置できたので、炉心の露出まであと2時間というところで冷却機能が回復し、一挙に圧力を下げることができたのです。中央制御室のスタッフが打ち水のように容器に水をまくなど温度や圧力を下げるといった工夫をしてくれて、18時間ほどの時間を稼いでくれたことも大きかったです。
ここで学んだ教訓はいっぱいあるのですが、当然ですが、電気がないときの設備として大型の予備ケーブルとか予備の電源車、あるいは予備のモーターというものを用意しておかなくてはいけないということ。それから、止める、冷やす、閉じ込めるという作業について、これまでは関連企業さんと一体になって仕事をやるということを言ってきたのですが、実は、東京電力はお金と工程管理をして、作業は全部、関連企業に任せていたということになります。それではいけなくて、やはり最低限のことは自分たちでできるようにしなくてはいけないということです。これは第一も第二も同じです。モーターの取り替え、ケーブルの接続、あるいはがれきの撤去など、最低限のことは自分たちでできるようにしようということで、事故後、訓練を積み重ねています。
あとは設備についても、動いているものを止めて点検するのではなく、動いたままの状況で様子を見て点検していくという技術も必要だと思い、知識を共有しています。

ハードとソフトによるレジリエンス

原子力発電所は、すでに西日本では再稼働が始まっていますが、柏崎では、今、防波堤を造る、電源を何重にも確保するといったハード的な対策とともに、人間力を高めるための訓練を日々繰り返し行っています。ハードと人間が両方そろっていないとレジリエンスは成り立ちません。10メートルの津波が来ると言われていて11メートルの防潮堤を作ったというのでは、絶対パンクしない車を造ったので運転しなさいと言っているのと同じ。そんな車を造っても、運転し心地も悪いし、経済的でもないし、むしろ、それが本当に機能しているとは誰も信じないと思います。パンクしたときにもスペアタイヤを持っていて、取り換えの工具もしっかり持っていて、自分で交換できるようになる。これができる人が初めて運転していいということで、免許証をもらえるんだと思います。
原子力発電所も同じだと思います。この車のパンクに当たるところが何かというのは、今回本当に痛い目に遭ってよく分かりました。止める、冷やす、閉じ込めるというところが何で壊れるか分からないけど、壊れたときにこうするんだということができることが必要だということをやっています。そのためのスペアタイヤに当たるもの、工具に当たるものも持って、スキルも磨く。これをしっかりやっていくというのが、私の考えているレジリエンスです。
マニュアルをいくら整備しても駄目で、たくさんのソリューションを用意しておいて、普段からそれが使える技能を持っておく。あとは、そのときの壊れ方を判断しながらさまざまなツールやソリューションを使って復旧させなくていけません。現場はその指示に従い邁進(まいしん)するということが大事なんだと思います。それでも駄目なときのためには、社会に与える影響を緩和するために、放射性物質が極力出ないように、あるいは出たとしても、大きな影響にならないような設備を入れるという多重防御が、われわれがやらなくちゃならないことで、今はしっかりこうした対策を徹底しています。
(2018年11月8日に行われた一般社団法人レジリエンス協会の定例会より)

(続く)

第1回 ハーバードで取り上げられたリーダーシップ
第2回 現場の安全を守る

(2018年11月8日に行われた一般社団法人レジリエンス協会の定例会 講演より)

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