日本中で最も有名な待ち合わせ場所といえば、東京・渋谷のハチ公像だろう。四十年以上前、青森から東京に出てきた私も世話になった。上京後しばらくして、高校の友達と渋谷で会おうと約束した。携帯電話などない時代、そのとき彼は「ハチ公というだけでは人がいっぱいで会えないこともあるらしい。ハチ公のしっぽで」と言い渡した。
そのハチ公像の制作者・安藤士(たけし)さんが1月13日に亡くなった。
10年前、ハチ公像の制作にかけた安藤さんの思いや来し方を詳しくうかがい、ハチ公の生涯についても調べる機会があった。そこで知り得たことは、わたしが持っていたハチ公のイメージを覆すものだった。記して、安藤さんへの追悼としたい。
恩を忘れるな
最も詳細で正確な記録とされる「ハチ公文献集」(林正春編)によると、ハチ公は1923年11月、秋田県大館市の農家で生まれ、翌年1月、東大教授の上野英三郎(ひでさぶろう)にもらわれた。上野は子犬をハチと名付けてかわいがり、出勤するときは渋谷駅まで連れて行った。
だが、子犬が来てからわずか1年余り後に急死。犬の境遇も急変する。浅草の家に預けられたが、しばしば渋谷に逃げ帰った。結局、渋谷の植木職人が世話をすることになり、ハチ公は毎日、渋谷駅に現れるようになる。
きっかけは新聞だった。32年10月「いとしや老犬物語/今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる七年間」という見出しで朝日新聞が報じて評判になり、映画やレコードに。存命中の34年4月に銅像が建てられ、除幕式にはハチ公自身が“出席”している。
時代が放っておかなかったのだ。31年の満州事変でいわゆる「15年戦争」に突入した。32年に傀儡国家の満州国建国、五・一五事件。33年に国際連盟脱退、36年には二・二六事件が起きる。
戦火の拡大は、人間の命をも動員するイデオロギー装置を求めた。ハチ公は「忠義」「忠誠」の象徴となっていく。
ハチ公自身は除幕式から1年もたたない35年3月に死んでいる。死因をめぐるあれこれは後述する。死んだ年には小学2年の修身の教科書に「オンヲ忘レルナ」の題で登場した。
誉れの出陣
しかし、それだけでは終わらない。戦争が長期化し物資が欠乏すると、ハチ公は“2度目の死”を迎える。政府が金属類の回収を始め、銅像は44年10月、撤去された。新聞は「ハチ公、誉れの出陣」と報じ、最後まで国家イデオロギーに利用された。銅像は溶かされ、機関車の部品になった。
この初代の像の制作者は安藤士さんではない。ハチ公と同年代生まれの安藤さんはまだ小学生から中学生になるころ。制作したのは父の彫刻家・照(てる)さんだった。
安藤さんは毎日、ハチ公を渋谷駅で見かけていた。私立中に通学するため渋谷駅を使っていたからだ。本物のハチ公の印象を尋ねると、意外な言葉が返ってきた。
「みんなから邪魔にされていました。どうしてこんな所にこんな大きな犬がいるんだという感じでした」。確かに、渋谷の人混みに大型犬が紛れ込んだら、さぞ邪魔だったろう。
父のアトリエに連れて来られてモデルになっている姿も見ている。そのときは?
「犬は犬ですからねえ。自由なかっこうでしたよ。寝そべっていることもあったし、おいしいものはないかなあと見ていることもあったし、眠いときは眠そうにしていました。撫でたこともありました。おとなしい犬で、かまれちゃうんじゃないかという恐ろしい感じはなかったですね」
再建の依頼
安藤さんの言葉を長々と紹介したのは、実際のハチ公の姿を見た人の証言を記録しておきたかったからだ。ハチ公は「渋谷駅周辺では邪魔にされ」「犬らしく自由で」「おとなしい犬」だった。
安藤さんは敗戦まで、父の作ったハチ公像が金属回収で撤去されたことを知らなかった。東京美術学校(現東京芸術大)在学中の1943年、学徒出陣で満州に出征したからだ。
終戦時には本土防衛のために宮崎県にいた。復員は終戦から2カ月後。東京・代々木の参宮橋駅に降り立って驚く。「こんなに焼けるものか」。一面、黒い焼け野原だった。
父と妹は45年5月の空襲を受け、防空壕で焼け死んでいた。敗残兵として帰ってきた自分が「情けなく、申し訳なかった」。
食料難の時代、彫刻では食えない。ダンスホールの装飾やデパートのウインドーディスプレーの仕事を始めた。傍らアトリエを再建し、寝る間も惜しんで粘土に取り組んだ。
そのころハチ公像の再建計画が動き出していた。47年4月に再建委員会が組織され、安藤さんに「作ってほしい」と依頼が舞い込む。うれしかった。「よしハチ公、おまえをつくってやるぞ」
大きく、白く、おとなしかったハチ公は、はっきりと記憶に残っていた。急ピッチで制作を進めた。2代目のハチ公像の除幕式は翌48年8月15日に行われた。(47ニュース編集部、共同通信編集委員・佐々木央)=続く