せっせとあんだだよ

 かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた-といえば、誰もが知っている「かあさんの歌」。向田邦子さんが〈この歌を、長いこと野球の歌だと思い込んでいた方がおいでになる〉という笑い話をエッセーで紹介している▲聞けばその人、「せっせと編んだだよ」というところを「節制と安打だよ」と少年時代に勘違いしたまま歌っていた-のだとか▲向田さんが不慮の飛行機事故で去ったのは1981年8月。だから、もちろん向田さんは、その頃7歳の子どもだった彼のことを知らない。しかし、平成の私たちには、この話から思わず連想せずにいられない一人の野球選手の名前がある▲40代半ばになって、頭には白髪が増えても、体型は若い頃のままだ。ライン際の飛球を軽快にさばく守備も、物差しで線を引いたような外野からの鋭い返球も衰えとは無縁に見えた。その向こうの努力を改めて思う▲〈小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただ一つの道〉。92年7月、福岡の平和台球場で放ったプロ初安打から積み重ねたヒットは日米通算4367本▲東京ドームのメジャー開幕2連戦。最後の打席は緩い内野ゴロだった。一塁に疾走する姿を忘れまい。「節制と安打」の人、イチロー。消えない記録と記憶を皆に残してバットを置いた。(智)

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