「世界で一番新しい国」に派遣された、国境なき医師団の白川優子看護師 © Yuko Shirakawa/MSF
「世界で一番新しい国」
「世界で一番新しい国」
その言葉から、どんな国を想像するだろうか。その国は希望や平和に満ち溢れているだろうか。若々しく、大きな期待を持たれている国だろうか。テクノロジーが発展した近未来的な国だろうか?
この地球上で一番新しい国、それは2011年にスーダン共和国から独立した「南スーダン共和国」だ。私は2014年に、この南スーダンに国境なき医師団(MSF)の看護師として2ヵ月ほど派遣された。2010年からMSFに参加し、数々の派遣地で活動してきた私は、この国に足を踏み入れた時に感じたことがある。それは、南スーダンほど国内の惨状が世界に伝わっていない国はまれなのではないだろうかということだ。私が見た「世界で一番新しい国」の実態は、残念ながら、どこよりも「暴力にまみれ、命がたくさん消える国」だった。
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平穏を簡単に奪い去る戦争
地面の上で手当てを開始 © Yuko Shirakawa/MSF
派遣地は、上ナイル地方のマラカルという街。到着後まもないある日のことだった。スーダン人民解放軍(SPLA)と呼ばれる政府軍の武装車両が、突然マラカルに入り込んできた。チームリーダーのカルロスによれば、戦闘が始まる、という。マラカルの市民たちも避難を始めていた。続々とやってくる戦車や武装勢力を横目に、私たちもあわてて街の外へと脱出し、6キロほど離れた広大な国連の敷地内へと避難した。
翌朝になってみると、大多数の市民が国連施設へと押し寄せてきていた。敷地内には立ち入れず、フェンスに沿って人びとがひしめく光景は壮絶であった。
「戦闘が始まったら、空港が封鎖されてしまうかもしれない」
この日、カルロスが言った。彼の考えには、チームの撤退も含まれていた。ただ、ここで医療チームが全員撤退してしまったら、戦闘で犠牲になる人びとはどうなってしまうのだろう……。彼はそれを踏まえた決断をした。撤退するメンバーと残るメンバーに分ける、チームの縮小だった。
カルロスは、一人ひとりに計画を説明し、メンバーそれぞれの意志を確認した。私の番がきた。手術室看護師のスキルが役に立つかもしれないので、残ってくれるかと聞かれ、私は何の迷いもなく、残れると答えた。市民を置いて逃げるわけにはいかないという、看護師としての思いが揺らがなかったのは間違いないが、空港が閉鎖されてしまった後の混乱の想像がつかず、割と楽観視していたのかもしれない。
飛行機を見送った翌日、大衝突が始まってしまった。マラカルの玄関口である空港は反政府勢力に占拠され、全てのフライトの離着陸が不可能になった。移動手段は、ナイル川沿いであればボート、他にはチャーター機しかない。私たちは首都へと脱出できずに閉じ込められてしまった。
この日から国連施設には、大きな爆撃音や銃撃音をバックに、血を流し傷ついた人びとがどんどんやってきた。戦争というものが、日常の中に突然侵入し、人びとの平穏を簡単に奪い去ってしまうものなのだと思い知らされた。
私たちも緊急で避難してきたため、医療物資をほとんど持ち合わせていなかったが、まずは国連敷地内の空き地を使って、けが人の手当てを開始した。消毒薬とガーゼ程度しかなく、手術が必要なほどの大けがに苦しむ多くの患者さんたちには何もしてあげることができなかった。気温50度を超える猛暑の中、血を流す市民たちのうめき声が段々と小さくなる。世界の誰も注目しない戦争の、報道されることもない暴力によって人びとは亡くなっていった。私たちには彼らの身元を確認するすべもない。せめてもの思いで、遺体を入れたバッグに日付と性別、推定年齢を書いた。
市民の生活にも、命の危機が迫る
人びとが棒切れと布で作った仮住まい © MSF
命の危機が迫っていたのは、負傷者だけではなかった。あっという間に始まった戦争から逃れた市民らは、国連の敷地内の空き地に、棒切れと布切れのみで作った緊急的な住居で避難生活を始めるしかなかった。
市民らは何とか生き延びようと、炎天下の中、倒れそうになりながらも、ひたすら重たい水を運び続ける。何かを訴えることも文句を言うこともなく、惨事を静かに受け入れているようだった。
私はこれまで、ほかの紛争地で活動をする中で、被害に遭う人びとの泣き叫ぶ姿や、人びとが恐怖に耐えきれずに騒いで混乱する場面を幾度となく目の当たりにしてきた。それに比べると、南スーダンの人びとは、不測の事態や劣悪な環境への適応力が優れている冷静な人びと、と言っても良いと思う。
しかし、栄養失調の子どもに配った食糧を、やはり空腹で苦しむ親が食べてしまったり、さらなる食糧確保のために売ってしまったりという現実もあった。
常に戦争に翻弄されてきた南スーダンの人びと。平和を知らないというのは一体どういう気持ちなのだろうか。戦争を知らない私には理解の域を超える疑問である。
そんな中、1週間もしないうちに、まず老人と小さな子どもたちに命の危機が襲ってきた。赤ちゃんはお母さんのおっぱいを吸う力さえなくなり、小さな命が弱っていく。私たちはとにかく薬と医療物資が欲しかった。全ては6キロ先のマラカルの病院に置いてきてしまった。
状況はどんどん悪化し、自分たちの飲み水も底をついてしまった。戦闘が始まる前は週に一度、首都からチャーター便で送られていた食糧や物資の供給は断たれ、激しい戦闘の音が続く街には戻ることもできない。この時はナイル川の水を塩素消毒してしのいだが、その川には遺体も浮いていた。長引く戦闘で増える一方の遺体は、ナイル川に流すことが、戦時下にあっては唯一の対処方法だったのかもしれない。50度の猛暑は地面に積まれた遺体をどんどん腐らせていたのだ。そしてその猛暑を生き延びるためには、私たちもナイル川の水を飲むしかなかった。
国境なき医師団の旗で再会した親子
新たに建てたテント病院は、赤ちゃんを抱いたお母さんで満員に © Yuko Shirakawa/MSF
空港が解放されると、MSFの応援人員や物資が到着するようになった。一番の助け舟は、MSFの“大工”が到着したことだった。彼と、協力を申し出てくれた南スーダンの青年たちによって、首都ジュバから続々と届き始めた物資を使った大きなテント病院の建設が始まった。
そして私たちはテント病院の前にMSFの大きな旗を高く掲げた。今まで見たこともないほど大きな旗が、空に翻る。「ここで医療活動をしています」というメッセージを近隣全域に告知し、命を救う希望の場所としての活動を本格的に開始した。ここまでこぎつけるのに、戦闘開始から1ヵ月が経っていた。
ある日、小さな小さな赤ちゃんが迷子として連れてこられた。その子は脱水が顕著なしわしわの状態で、よく生きていたと思われるほどだった。戦闘からの脱出の混乱の中でお母さんとはぐれてしまったのだろうか。何万人もの市民が一気に避難するという状況では、大人同士であってもはぐれてしまうであろう。私たちは、名前も身元も分からないこの子の栄養治療に取り組んだ。
数日後、なんとテント病院にお母さんが現れた。赤ちゃんとはぐれ、ずっと探していた時に、人びとの口伝てによってMSF病院のことを知ったのだという。
「あの大きな旗を目指して行ってごらん」
そこに行けば病院がある。はぐれた子どもに会えるかもしれないと聞かされ、ナイル川を渡ってきたのだった。“命を救う希望の場所があると伝えたい”。私たちが旗に込めたメッセージを、人びとは確かに受け取ってくれていた。
今まで哺乳瓶のミルクを吸う力もなかった赤ちゃんは、お母さんの腕に抱かれながら、一生懸命おっぱいを吸っていた。入院していた他の患者さんたちもその母子を囲み、微笑んでいた。
子どもの回復力は強い。特に栄養失調は、適切な治療や対処によってみるみる回復していくものだ。救えない命ももちろんあるが、この病院で栄養改善の治療をしている大半の赤ちゃんたちは、すぐに元気になって退院できる。その後成長していく中で、この子たちはどんな南スーダンを目にすることになるのだろうか。
「世界で一番新しい国」、南スーダンの大事な将来を背負っていく、大切な未来の市民として、今はお母さんの愛情をたくさん受けて育っていってほしい。私はそう願った。
戦乱の中、迷子になった小さな小さな赤ちゃん © Yuko Shirakawa/MSF
※この記事は「情報・知識&オピニオン imidas」初出の記事を改題、再編集したものです。
原文はこちらから⇒「世界で一番新しい国」の母子(南スーダン)」
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