制服組トップ 最後に語った「官邸」との距離

在任期間最長、河野統幕長の退任(1)

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会見する河野克俊統合幕僚長、海自護衛艦「いずも」

  3回にわたり定年が延長された自衛隊制服組トップの河野克俊統合幕僚長(64)が3月28日、在任最後の定例会見に臨んだ。海幕長から2014年10月に就任してから4年5カ月。日参するように首相官邸に出向き情勢報告した回数は間違いなく歴代最多で、最高指揮官である安倍首相や政府中枢に自衛隊のスタンスを示してきた。自衛隊と官邸との距離感の変遷について問われ「(これまでより)近くなったかどうかは分かりませんが、シビリアンコントロール(文民統制)としてはありうべき姿」と、河野氏は語った。平成の時代、実行部隊として変容してきた自衛隊。さまざまな転換期に舵取りを担った河野氏のこれまでの言動に焦点を当てた。(共同通信=柴田友明) 

 ▽制服組「二世」

  2001年、筆者が防衛担当記者として取材を始めた時、河野氏は海上幕僚監部の防衛課長だった。当時海幕防衛部長で今や安全保障分野でテレビのコメンテーターとして引っ張りだこの香田洋二氏(元自衛艦隊司令官)とともに毎週のように記者懇談に応じていた。気さくなタイプで記者受けはよかった。その席だったと思うが、河野氏の父克次氏(故人)が1941年真珠湾攻撃の際、旧海軍潜水艦の機関長として参加したと聞いたことがある。 

 2人乗りの特殊潜航艇を母艦の潜水艦で真珠湾まで運び送り出す任務に就き、戦後は海上自衛隊幹部となった。初代の函館基地隊司令として1954年の洞爺丸事故(青函連絡船が台風で転覆、乗客・乗員計1155人が死亡行方不明となった国内最悪の海難事故)では災害派遣の陣頭指揮を取ったという。

 子は親の背中を見て育つということだろうか…余談だが、作家山崎豊子氏の絶筆となった小説「約束の海」も真珠湾攻撃の特殊潜航艇の乗組員だった父と海上自衛隊に入った子の物語が描かれている。「日本の平和」の意味を問う意欲作だったが、山崎氏の死去で未完となった。山崎豊子ストーリーを地でいくようなリアルな親子二代記だが、組織の頂点に立った子に小説の登場人物のような「屈折」はなかったのだろうか。

1960年に真珠湾から引き揚げられた旧日本海軍の特殊潜航艇=1961年7月(米海軍提供)

 「背を押されて防衛大学校に入り、1977年に海上自衛隊に入隊した。正直なところ、防大に入った当初はさほど、強い目的意識はありませんでした」。日経新聞(2015年2月5日)の「リーダーの本棚」という読書遍歴のインタビュー記事で河野氏は語っている。「そこで出合ったのが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』です。明治維新後、小さな日本が強国ロシアとの戦いに全身全霊を傾けていく物語に心を動かされ、自衛官として一生やっていこうという志が固まりました」とその記事の中で述べている。

 やや模範的な回答のように感じるが、明快なエピソードでもある。

 ▽憲法明記「ありがたい」発言

 統幕長として、この1、2年では二つの発言が筆者にとって印象に残る。

 「一自衛官として申し上げるなら、自衛隊の根拠規定が憲法に明記されることになれば非常にありがたいと思う」。2017年5月、河野氏は日本外国特派員協会で会見した際、憲法9条に自衛隊を明記するとの安倍首相の改憲提案について尋ねられ、その答えが物議を醸した。「憲法は高度な政治問題なので、統幕長の立場で申し上げるのは適当ではない」と前置きしたとはいえ、前のめりに踏み込んだ発言(制服組トップの憲法改正への言及)とされ、河野氏は後で「個人的な感想を述べた。全く政治的な意図はない」と釈明している。

 18年10月、韓国海軍の「国際観艦式」で韓国側が海自に自衛艦旗の旭日旗を掲揚しないよう求めたことについて、河野氏は「海上自衛官にとって自衛艦旗は誇り。降ろしていくということは絶対ない」と発言する姿はテレビやネットニュースで多く取り上げられた。

 これらの言動だけを見ていると、強面の指揮官を想像するが、温厚で気さくなムードで人と接する「達人」という指摘もある。今年3月15日にはNHKウェブ「永田町・霞が関のサラめし」コーナーで昼に海自伝統の「金曜カレー」、どら焼きをほおばる姿が掲載されている。風貌から「ドラえもん」とされる自身のあだ名について「丸顔でしょ。『外見が似ている』と。ドラえもんって、何でも出せるじゃないですか。だから『柔軟性があって臨機応変』という意味で言ってくれる人もいて、それならいいかなと」と自身を語っている。

 こうしたタレント性はこれまでの制服組トップのキャラにはなかったタイプだ。仮にいても、メディア側が取り上げる対象にしてこなかったかもしれない。そういう意味では政治だけでなく、社会のさまざまな分野と自衛隊との距離感が縮まってきたためかもしれない。

海上自衛隊の観艦式で護衛艦「くらま」の艦上から演習を観閲する安倍首相(中央)。左隣は麻生副総理、左端は中谷防衛相=2015年、神奈川県沖の相模湾(代表撮影)肩書は当時

 ▽安倍氏に直訴した「自衛官」

 3月28日の最後の定例会見で、河野氏は40年余の自衛官として最も心に残ることは2001年9月11日の米同時テロ、その後インド洋に洋上給油のために海自艦艇派遣の指揮に当たったことだと述べている。

 「本番」とも言える海自の実任務は、アフガン戦争に突入していく米軍との協調路線だった。小泉政権が決断した自衛隊の新たな海外派遣は内外で論議を呼んだ

 当時、官房副長官だった安倍首相は01年10月3日の講演会で明かした話はサプライズだった。海自派遣が取りざたされていた9月21日の深夜、自衛隊幹部が安倍氏の自宅を訪ねて、あることを直訴したというのだ。その幹部は「隊員がけがをしたり亡くなったりした時に、政治家が『すぐ帰ってきなさい』というなら初めから出さないでもらいたい」と強く要望したという。

 その通りなら、安倍氏と制服組幹部との距離感がぐっと縮まった最初のできごとだったかもしれない。

(続く)

米ワシントン近郊の国防総省でデンプシー統合参謀本部議長(左)と握手する河野克俊統合幕僚長=2014年(米国防総省提供・共同)、肩書は当時