「ITデータコラム」「最高の選手が勝つ」レースシリーズに期待 ヨットの「セールGP」が創設

インタビューに答えるラッセル・クーツ氏(共同)

 水中翼で海面から浮き上がり、最高時速は約100キロにまで達する―。高速の大型カタマラン(双胴艇)で争うヨットレースシリーズ「Sail GP」(セールGP)がこのほど創設された。そして、記念すべき第1戦が今年2月、シドニーで開催された。世界各国から6チームが参加した初のレースでは日本が2位に入る好成績を収めて、注目を集めた。

 レースは2日間実施。日本チームは3レースが行われた第1日の終了時点で総合首位に立ったものの、最終日の2レースで総合2位に後退。上位2チームで争う決勝マッチレースでは、地元オーストラリアに敗れた。しかし、強豪の米国や英国、フランス、中国を抑えての初戦2位は上々の出だしだと言える。日本チームのトップである早福和彦・最高執行責任者(COO)は「今大会の大きな目標は陸上、会場でのチームワークの強化。この目標は達成できたと思う。引き続き、チームの完成度を高めていきたい」と手応えを感じたようだ。

一方、グラインダーの吉田雄悟は第1戦を終えても慎重だった。「可もなく不可もなくという感じだが、チームにとっての第一歩を踏めたのかな、と思う。まだ、体重と筋力を増やしていくことが必要」。グラインダーは巨大なセールをウインチで操作するのが役割だ。2017年のアメリカズカップ(ア杯)に参戦するなど豊富なレース経験を誇るベテランセーラーは開幕戦の2位にも浮かれることなく課題を口にした。

 セールGPで使用するのは「F50」と名付けられた双胴艇。全長50フィート(約15メートル)で幅28フィート(8.8メートル)。飛行機の翼のようなウイングセールは高さ24メートル。総重量は約2.5トン。5人で操作する。

 参加チームが乗るこのF50。艇体、セールとも同じメーカーが提供する同一デザインの艇なのだ。当然、艇の性能差はほとんどない。勝敗を分けるのは、乗り組むクルーたちの操船技術やコース選択の判断力になる。

 セールGPの最高経営責任者(CEO)を務めるのは、伝説的セーラーのラッセル・クーツ氏。1984年ロサンゼルス五輪のセーリング男子フィン級で金メダルを獲得した。その後、フィン級が属するディンギー(小型艇)から世界最高峰のヨットレース、ア杯に転身。艇長として3度、最高経営責任者(CEO)として2度獲得するなど、大きな成功を収めた。

 共同通信の取材に対して、クーツ氏はセールGPの意義を「艇の開発にどれだけのお金をかけたかではなく、最高の選手が勝つ。選手の技術により注目してほしい」と述べた。

 同一のデザイン艇を使用することによるコストダウン効果は大きく、参加チームの負担は小さくなる。17年ア杯にはソフトバンクの総監督として出場した早福氏によると、自チームで艇を開発して臨んだア杯に比べると、チームの運営にかかるコストは数分の1になったという。

 ア杯でクーツ氏と並ぶ、もう一人の大立者である米ソフトウエア大手オラクルの創業者で会長のラリー・エリソン氏もセールGPに財政面で支援している。エリソン氏が5年間は財政的な負担をするという。

 使用する艇は17年のア杯と大差ないが、各チームのコストは大きく軽減された。これにより、チームの参加が容易になる。結果、出場チームが確保されるので、セールGPも継続して開催できることになる。

 第1戦はシドニーで開催されたが、今後は5月上旬にサンフランシスコで第2戦、6月下旬にニューヨークで第3戦を行う。その後、場所を欧州に移し、8月前半に英国南部カウズで第4戦、そして9月下旬にマルセイユで最終戦という予定になっている。

 セールGPは最終的に出場10チーム、10会場での開催を目指しており、3年目のシーズンまでに日本で開催したい意向だ。

 国別対抗戦の形式を取っている。しかし、F50を操作し、レースを戦うには高いセーリング技術が求められ、そうした人材を5人集めるのが困難なケースもあり得る。そのため、一定数の外国籍選手をクルーとして加えることが認められている。日本チームは開幕シーズンの今年、日本選手40パーセントの比率でスタート。1年ごとに比率が引き上げられ、4年目に全チームが自国選手だけでクルーを構成する。

 セールGPのユニークな点は、次世代の育成を掲げていることだ。参加チームはそれぞれ、2年目からユース向けプログラムをスタートさせる。早福氏は、国内にチームの本拠地を探しており、そこで若い世代の育成も行うという。

 最先端の技術を詰め込んだ高速レース「セールGP」。その裏には、セーリングを時代に合わせた形で普及させたいというクーツ氏のヨットマンとしての思いがあるようだ。

 山崎 恵司(やまざき・えいじ)のプロフィル 1955年生まれ。79年に共同通信運動部に入り、プロ野球を中心に各種スポーツを取材。93年からニューヨーク支局で野茂英雄の大リーグデビューなどを取材。帰国後、福岡支社運動部長、スポーツデータ部長などを務め、現在はオリンピック・パラリンピック室委員。

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