1975年4月1日、ウエスト・ロード・ブルース・バンドがアルバム『Blues Power』でバーボン・レーベルからデビュー

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1970年代初頭から中頃にかけて日本のロック・シーンを席捲したものに“ブルース・ブーム”があるが、そのブームを生み出したのは主に関西のブルース・バンド勢だった。そんなことから“関西ブルース・ブーム”とも呼ばれたが、その中心的存在且つ火付け役として登場したのがウエスト・ロード・ブルース・バンドだった。

同志社大学の軽音楽部に在籍していた塩次伸二、永井隆(ホトケ)、小堀正の3人に山岸潤史、松本照夫が加わる形で結成され、京都の西大路を本拠に活動していたことからウエスト・ロードと名乗り、72年にはB.B.キングのオープニング・アクトを務めて話題を呼んだ。が、グループの結成は71年だから僅か1年程でB.B.と共演するとこまで漕ぎ着けたというのは、今考えてみると驚異的なことだと思う。シンプルにして強靭なリズム・セクションに、強力無比の2本のギター、そしてホトケのスモーキー・ヴォイスで聴かせるシカゴ・スタイルのモダンなブルースは、当時最強だった記憶がある。

せっかくなのでここに、当時の関西のブルース・シーンの一端が垣間見れる生々しい証言を紹介しておこう。

「後に銀閣寺のロック喫茶『ダム・ハウス/Dom House』を根城にして西部講堂のコンサートとかを企画していく岡崎タカオさんていう人がいて、バンドやるとしたらお前どうするみたいなこと言われて、僕は楽器出来ませんから、歌ですかねぇって言ったら、歌のことならコイツに聞けって横にいる人を紹介してくれた。それが永井“ホトケ”隆さん(ウエスト・ロード・ブルース・バンドのVo.)。あの時、岡崎さんが僕に声を掛けてくれなかったら、永井先輩と知り合うこともなかったし、また永井先輩も気に入ってくれて下宿まで連れて行ってくれたわけさ。で、下宿に入り浸るようになって、そこにハッチャン(服田洋一郎、ブルースハウス・ブルース・バンドのリーダー)も一緒に住んでいたわけだ。そこにまた塩次伸二(ウエスト・ロード・ブルース・バンドのG.)が来るわけ。」(西村入道)

こんな風に関西からはブルースハウス・ブルース・バンド、憂歌団、ファッツ・ボトル・ブルース・バンドなど続々とブルース・バンドが登場することになる。

が、ブルースが人気を集めたのは関西に限ったことではない。そんな時代の流れを象徴するかのように、72年5月には新宿西口に東京初のブルース中心のライヴ・ハウス「マガジン1/2」が開店した。ここに出演していたのはレイジー・キム・ブルース・バンド、ウィーピング・ハープ妹尾らだったが、関西からウエスト・ロード・ブルース・バンドや憂歌団も出演して、関西で火がついたブルース・ブームの熱さを最初に伝えた店でもあった。当時東京でウエスト・ロードが出演していたのはこの「マガジン1/2」と吉祥寺の「OZ」だったか、そのどちらかで彼らウエスト・ロードを見た記憶がある。

その後、ウエスト・ロードは、’75年に徳間音工が日本のロックの専門レーベルとして設立した「バーボン」レーベルから『Blues Power』でデビューを飾る。当時、「バーボン」は日本のロックに特化したレーベルということで脚光を集め、あんぜんバンド(安全バンド) 、上田正樹&サウス・トゥ・サウス、紫など、トップ・アーティストが次々とこのバーボン・レーベルからデビューを飾っている。これが契機となったのか、それまで日本のロックに見向きもしなかったレコード会社がこぞって日本のロック市場開拓に乗り出し、ブラック(テイチク)、フライング・ドッグ(ビクター)、ニュー・モーニング(フォノグラム)、TAMA(東宝レコード)、SEESAW(ポニー・キャニオン)など、各社が日本のロック専門のレーベルを立ち上げている。こうして、以後しばらくはロック・バンドのデビュー・ラッシュが続くことになる。そんな時代でもあったのである。

ウエスト・ロード・ブルース・バンド『Blues Power』ジャケット、スプリングカーニバル in 日比谷野音ポスター撮影協力:増渕英紀

【著者】増渕英紀(ますぶち・ひでき):音楽評論家、コラムニスト。東京都出身。メジャーには目もくれず、ひたすら日本では過少評価されているマイナーな存在の海外アーティストや民族音楽、日本のアンダーグラウンド・シーンやインディー系のアーティストにスポットを当てて来た。