天草の複数墓地 潜伏キリシタン墓碑と確認 旧志岐領27カ所に600基

潜伏キリシタンの墓碑と確認された天草市・旧志岐領の墓地(大石一久さん提供)

 天草市五和町で長年キリシタンに関わる遺構とされながら詳細不明だった複数の墓地が、潜伏キリシタンの墓碑群であることが墓石に詳しい歴史研究家(オリエントアイエヌジー顧問)の大石一久さん(67)=大村市在住=らの調査で明らかになった。

 同町の墓碑群の存在は昭和初期には知られ、そのうちの「ぺーが墓」と「岩宗のキリシタン墓碑群」は天草市文化財に指定されている。山頂をなだらかに平地化した土地に、長方形の板状の墓碑が配列している点がキリシタン墓地の特徴と一致するが、キリシタンのものと特定するには根拠が弱かったという。

 2011~15年、大石さんは大分県臼杵市で同様の特徴を持つ「下藤キリシタン墓地」の調査に参加した。そこでキリシタン墓であると分かった墓碑の形状や石材(溶結凝灰(ぎょうかい)岩)が、天草の墓碑群とほぼ同じであることが判明。天草のものもキリシタン墓碑だと分かってきたという。

 その後、天草市教委の松本博之さんの調査で、天草下島北部の旧志岐領27カ所に、約600基の墓碑があることが確認された。

 大石さんは、形状や歴史背景などから、墓碑群は17世紀半ばから後半に築造されたとみる。幕府が禁教令を出したのが1614年。その後国内から宣教師がいなくなると、信徒たちは記憶を頼りに墓を造り、今回の墓碑群に見られる「潜伏期」の粗雑な墓の特徴が現れるようになるという。

 旧志岐領は、禁教期以前は熱心なキリシタンの領主が治め、信徒組織がつくられていた。しかし、禁教令によって住民は棄教し、その後は仏教徒になったとされている。今回の調査で、初めて旧志岐領に潜伏キリシタンがいたことが裏付けられた。

 大石さんは「最初はキリシタン墓碑と断定できなかっただけに驚いた。彼らが関係する島原・天草一揆の見方もこれで変わってくる」と話す。

 調査の詳細は、天草キリシタン館(天草市)が発行する2018年度報告書で発表する。

 ■島原・天草一揆には反対?

 潜伏キリシタンの墓碑群があると確認された天草市・旧志岐領は、島原・天草一揆で一揆軍に加わった地域。今回の調査は、潜伏キリシタンについてあまり言及されてこなかったという同一揆の従来の見方にも一石を投じそうだ。

 1637年に勃発した同一揆は、苛政や飢饉(ききん)を発端に、島原、天草の各地でキリシタンが武装蜂起。その後合流し、天草四郎を総大将にして原城に籠城、およそ3カ月の攻防の末、幕府軍に鎮圧された。

 一揆軍の主軸は禁教令によっていったん棄教し、再度改宗した「立ち返り」キリシタンとされる。彼らは周辺の住民を強制的に改宗させて勢力を拡大、改宗に背く住民には容赦なく攻撃を加えた。

 志岐の人々も強制的にキリシタンとして一揆勢に組み込まれ、天草の富岡城攻めに加わっている。しかし、富岡城攻めに失敗すると、志岐の人々は退却する一揆軍に鉄砲を撃ったという記録がある。また、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産になった天草の崎津や大江などの集落は、大半が同一揆に参加しておらず、長年それらの理由が分かっていなかった。

 今回の調査を踏まえ、大石一久さんは「自分たちが信仰を捨てたために神の怒りを買い、苛政や飢饉が起きたと捉えた立ち返りキリシタンは、武力に訴えてキリシタン王国を建設しようとした。それに対し、日本の伝統社会と共生共存する矢先だった潜伏キリシタンは、一揆に反対した。両者の行動路線には明確な違いがあった」と指摘する。

 これを裏付けるように後年、浦上四番崩れで潜伏キリシタンの指導者だった高木仙右衛門が同一揆を否定するような証言も残っているという。大石さんは「伝統社会との共生共存を許容した潜伏キリシタンと、武力に訴えた同一揆はなじまないとずっと思っていた。今後は崎津、大江も含めてより綿密な調査をして、潜伏期のキリシタン墓碑の実態と一揆の実像を解明したい」と話している。

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