板橋明治、足尾鉱毒事件に決着つけた老闘士 権威や政治力に頼らない農民独自の戦い

           板橋明治氏(板橋家提供)

<闘士>板橋明治の生涯

「足尾鉱毒事件は私の<ライフワーク>である」。

群馬県太田市在住だった<老闘士>板橋明治(いたばしめいじ)さんのことばである。2014年(平成26年)12月24日、板橋さんが他界されたと聞いた時はショックだった。享年93歳。私は心中で手を合わせしばし板橋さんの精悍な風貌を思い起こし、心から冥福を祈った。<ライフワーク>を成し遂げた板橋さんの生涯をスケッチする。

農民運動家である板橋さんは、群馬県山田郡毛里田(もりた)村(現・太田市)に、豊かな農家の長男として生まれた。勉学好きな氏は師範学校を卒業し、太平洋戦争では陸軍歩兵として南方戦線に送られた。父祖の時代から郷里の田畑では足尾銅山の鉱毒による被害(鉱毒事件)が続いていた。これに対して、氏は毛里田村鉱毒根絶期成同盟会(のちの太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会=渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会、渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会)会長として、河川鉱毒汚染に関する日本初の水質基準値設定(経済企画庁告示第1号)(1969年)を認めさせ、民権家田中正造の時代以来の足尾鉱毒事件における加害者決定(1974年)を達成した。「日本公害の原点」を確立したといえる。父祖の代から<百年公害>とされた足尾鉱毒闘争を東奔西走の末に勝利に導き、数多くの指標的成果を全国に示した。半世紀もの間、渡良瀬川鉱毒根絶を目指し先頭に立ってきたのである。

具体的に記述してみよう。古河鉱業(現・古河機械金属株式会社)の加害者責任を決定させたのは、指導者板橋さんを筆頭代理人とした971人である。太田市毛里田地区の被害農民達(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)が、1972年(昭和47年)3月31日、古河鉱業を相手に、総理府中央公害審査委員会(後の総理府公害等調整委員会)に提訴した。2年後の1974年(昭和49年)5月11日、調停を成立させた。<百年鉱害>の加害者を遂に古河鉱業と断定し、加害責任を認めさせるという「歴史的な日」となった。

板橋さんは言う。「山が動いた日だった。権威や政治力に頼らない我々農民の独自の戦いが百年の分厚い壁をぶち抜いたのだ」

足尾銅山の精錬所は1980年代まで稼働し続けた。2011年に発生した東日本大震災の影響もあって渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど今日でも影響(鉱毒)が確認されている。
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私が板橋さんに初めてお会いしたのは10年余り前である。板橋さんは80歳前後だった。眼鏡の奥の眼光は鋭く、中肉中背の体は矍鑠(かくしゃく)としており、その情熱的な話しぶりからは老齢者といった印象は全く受けなかった。私は目の前の農民指導者の人柄にほれ込んだ。

私はたびたび板橋さんの事務所にうかがい、インタビューや現地案内をお願いした。氏は時間の許す限り快く応じてくれた。「鉱毒史』」(上・下)刊行に向けて資料を整理中であった。(その後刊行された「鉱毒史」は関連資料をもれなく盛り込み、上・下刊とも約1500ページとボリュームある史書で、どのページにも板橋さんのチェックの目が光っている)。氏は資料の整理中も「足尾鉱毒事件は私の<ライフワーク>」と何度か言われ『鉱毒史』な必ず刊行すると決意を語っていた。

「板橋さんは現代の田中正造ですね」と声をかけた時には、頬をやや紅潮させて「田中正造の生き方に学ぶことは多いです」と語られた。「毛里田地区を絶対に<第二の谷中村(鉱毒により強制立ち退きされた村)>にしてはならない、と決意し努力して来た」。

頑固な一面もあったが、純粋・純真な方だった。私は1年半ほど取材を続け、拙書『百折不撓―鉱毒の川はよみがえった、板橋明治と父祖一世紀の苦闘』(信山社テック)を刊行した。板橋さんは大変喜んでくれたが、厳しい意見もいただいた。そこが板橋さんらしいと感服した。

足尾鉱毒事件の惨状

明治中期の足尾鉱山

現在の栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が採掘されていたが、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し幕末には廃山の状態となって、後に国有化された。1877年(明治10年)に実業家・古河市兵衛に払い下げられた。古河は採鉱事業の近代化を進め、1885年(明治18年)頃には大鉱脈が発見された。西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンにのぼる東アジア最大規模の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の4分の1は足尾銅山が占めていた。

しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の山林や水質に甚大な被害をもたらすこととなる。鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともに1947年(昭和22年)のカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。 鉱毒による被害は明治初期から中期にかけて渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。当時は原因が分かっておらず、新聞も足尾銅山が原因かもしれないといった書き方しかできなかった。

田中正造の孤軍奮闘

田中正造(晩年)

渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。政治家田中正造は農民運動の中心人物となった。鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。

田畑への被害は、特に明治末期から大正期にかけて4度の大洪水で顕著となった。1901年(明治34年)には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して廃村となった。1891年(明治24年)から衆議院議員田中正造が国会で繰り返し質問したにもかかわらず、政府は積極的に鉱毒対策を行わなかった。むしろ無視した。

1899年(明治32年)の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒によるカドミウム中毒で死者・死産は推計で1064人にのぼる。すべてが鉱毒が原因だとはいえないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、この地域で死者数のほうが多い。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。
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1901年12月10日、日比谷において田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行ったが、警備の警官に取り押さえられて失敗に終わった。だが、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。田中の直訴後、学生が相次いで団体で足尾視察に向かうなど、世論の盛り上がりにあわてた政府は、1902年(明治35年)に第二次鉱毒調査委員会を設置した。同委員会は洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」(渡良瀬遊水地)を作るべきとする報告書を提出した。渡良瀬川から直接農業用水を取水していた毛里田村とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加した。しかし政府は科学的な原因分析に消極的だった。そのため公害の内容は明らかにはなっていなかった。

戦後も鉱害は続いた

1973年(昭和48年)までに足尾の銅は掘りつくされて閉山し公害は減少した、とされた。だが精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。 (これより前の1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した)。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会は板橋さんの判断で独自に鉱害を測定している。

1947年(昭和22年)の超大型カスリーン台風以降、政府は渡良瀬川全域に堤防を造成した。この堤防工事は20年ほどかかった。堤防の竣工以後、渡良瀬川では大規模な洪水は発生していない。また足尾鉱山の汚染土砂の流出を防ぐため、足尾町(現・日光市)に防砂ダムの足尾ダムが作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の砂防ダムとしては最大である。

渡良瀬川の治水と首都圏への水道供給を主目的にした多目的ダム・草木ダムが渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村(現・みどり市)に作られた(1977年竣工)。このダムは当初鉱毒対策を目的の中に入れていなかったが、「水質保全に特に留意」することとされた経緯がある。鉱毒を下流に流さないようにするための半円筒形多段ローラーも採用された。このダムは常時水質検査が行われ、結果が随時公表されているが、そのような多目的ダムは日本にはほとんど存在しない。

農民の勝利とその後

1974年(昭和49年)5月11日、総理府中央公害審査会から事件の処理を引継いだ公害等調整委員会において調停が成立し、古河鉱業は15億5000万円を支払った。これは、古河側が鉱毒事件で責任を認めて補償金を支払った最初の出来事である。 古河鉱業側は、銅の被害のみを認め、カドミウムについては認めなかった。農民側も、調停申請にはあえてカドミウム問題は提示せずに、農業被害の早期解決を目指した。このときの調停の内容に含まれていた土地改良は、1881年(明治24年)に始まり1999年(平成11年)に完了した。渡良瀬川沿岸土地改良区理事長には板橋明治さんが就任した。公害防除特別土地改良事業として総事業費は53億3000万円が計上された。加害原因者の古河鉱業の負担率は51%だった。残りの大部分は国と群馬県が負担した(一部を桐生市と太田市が負担)。

調停の成果は大きなものとなった。加害企業決定、過去の農作物被害補償金、土地改良に及んだ事、加害者責任として古河鉱業が負担した実質額は調停請求39億円を上回ることになった。調停条項には無いが、被害農民には土地改良費の金銭負担は一切無く、被害農民が受取る補償金を非課税とさせた事は特筆すべき点である。
                

祈念鉱毒根絶碑(毛里田地区)

板橋さんが考案した祈念鉱毒根絶碑は「土」の字をかたどっている。記念碑としなかったのは、鉱毒問題が全面解消していないためであった。渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会により1977(昭和52年)5月建立された。板橋さんによる撰文及び揮毫が刻まれている。碑文は言う。

【苦悩継ふまじ されど史実は伝ふべし 受難百年また還ら須 根絶の日ぞ何時】

板橋さんがリードした毛里田地区の鉱毒反対運動は、どこからも支援を受けず、農民の手弁当による活動であるところが他の公害闘争と大きく異なる。板橋さんは独学で法律・公害問題・農業政策・河川行政などを学び、弁護士にも依頼せず指導者として闘った。「公害闘争はイデオロギーやアジテーションだけでは解決しない。むしろイデオロギーが運動の妨げになる事も少なくない」。板橋さんが私に語った言葉である。

1999年5月、渡良瀬川沿岸土地改良区による公害防除特別土地改良事業竣工記念碑が建立された。碑文は言う。

【渡良瀬川に鉱毒流れて 父祖五代 苦悩の汚染田 いま 改良成る】 (撰文及び揮毫は板橋明治)。

参考文献:「鉱毒史」(板橋明治編纂)、拙書「百折不撓―鉱毒の川はよみがえった、板橋明治と父祖一世紀の苦闘」(信山社テック)、「佐野市史」。

(つづく)

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