「令和の景色」自衛隊と安倍氏の〝接点〟 在任期間最長、河野統幕長の退任(2)

2001年9月11日、米中枢同時テロで爆発炎上するニューヨークの世界貿易センタービル(ロイター=共同)、主要国首脳会議出席のため専用機に乗り込む小泉首相と安倍官房副長官(当時)=2002年

 新元号「令和」の発表があった4月1日、自衛官最高幹部の河野克俊統合幕僚長が制服を脱いだ。「信頼は一瞬で崩れ去る。常に謙虚な心を忘れず、国民に寄り添う自衛隊として、さらに前進してください」。幹部自衛官らに防衛省でそう呼びかけた。離任の翌日、河野氏は民放ニュース番組に出演。歴代最長4年5カ月務めた「前統幕長」として紹介され、「自衛隊が動くことによって国民に自衛隊の顔が見えるような時代になった」と平成時代の海外派遣、災害派遣を例に挙げた。この間、自衛隊と政治、双方の距離感は確かに変わった。新たな「令和」の時代、その〝間合い〟はどう取られていくのだろう。それを意識させる「9・11」直後のできごとを振り返った。(共同通信=柴田友明)

 ▽最初の転機

  河野氏が自衛隊人生として最も心に残ることは2001年9月11日の米中枢同時テロ、その後インド洋に洋上給油のために海自艦艇派遣の指揮に当たったこと、と述べたのは前回でも紹介した。河野氏が海幕防衛課長、第3護衛隊群司令(舞鶴)を務めた時代だった。

  18年前の「9・11」。ニューヨークの世界貿易センタービルにハイジャックされたジャンボジェット2機が相次いで突っ込む映像は世界を震撼させた。自衛隊と政治との距離が狭まる新たな転機ともなった。防衛担当記者だった筆者の取材メモと記憶をベースに述懐したい。

  その日、東京・市谷の庁舎は「手薄」な状態だった。中谷元防衛相は東ティモールPKO派遣の調整のためインドネシアに、中谷正寛陸幕長は国際会議のためマレーシアに、海幕防衛部長の香田洋二氏は米海軍との打ち合わせのためハワイにいた。

 非常呼集で内局、制服幹部が次々とメイン庁舎A棟に駆け付けた。地下の中央指揮所で全体会議が行われたのは翌12日の未明だった。運用を担当する内局スタッフが緊張の余り記者対応で声が震えていたのを覚えている。

 米国が攻撃されている事態に先陣を切るかたちで行動を示したのは海上自衛隊だった。テロは米本土とは限らない。その1年前、イエメン・アデン湾で停泊中の米イージス艦に爆薬を載せたボートが自爆攻撃して米兵17人が死亡した事件があった。在日米軍が同じようなターゲットにならない保証はない―海幕幹部たちはそう考えた。

 米海軍と施設を共用している横須賀、佐世保基地では12日朝までに、海自艦艇が次々と出航した。空からだけでなく海から船舶による攻撃もあることを想定して事実上の警戒態勢に入った。何よりも米海軍自体が同時テロの発生直後から、警備モードを最高位の「デルタ」に高めていた。肌感覚で〝共鳴〟するように海自にとっては当然の措置で、その次に「何ができるのか」が喫緊の課題だった。 

衆院本会議の閣僚席で協議する(左から)田中外相、安倍官房副長官、福田官房長官=2001年5月当時

 ▽「空回り感」 

 半年前に誕生した小泉政権は直近の参院選に大勝。前任の森喜朗元首相が「えひめ丸事故」(ハワイ沖で高校実習船が米原潜に衝突され沈没、生徒ら9人死亡)の対応の在り方などで批判を浴びて退陣後に生じた政治の混迷を、鮮烈な「小泉旋風」が突き崩した時代だった。

 第1次小泉内閣は、総裁選で小泉氏を応援した田中真紀子外相、防衛大卒の初の閣僚・中谷元防衛相、福田康夫官房長官、安倍晋三官房副長官という顔ぶれ。「9・11」対処は危機管理、米国との連携をどう取るか政権の命運がかかった外交の大舞台だったが、当初は振り付けがないまま〝空回り感〟が漂った。小泉氏は同時テロ直後に「テロ怖いねえ。予測不可能だから」とコメンテーターのような言い回しで記者団に語っていた。 

 米国は「テロとの戦い」を見据えて拳を固めて振り下ろす先を見定め始めていた。これを「21世紀最初の戦争」と呼んだブッシュ米大統領が9月12日夜に電話会談に臨んだ主要国首脳は英国、フランス、ドイツ、ロシア、そして日本より先に中国の江沢民国家主席…小泉氏に順番が回ってきたのはその後だった。

 12日の緊急会見で小泉氏は「米国を強く支持し、必要な援助と協力を惜しまない」と表明。「怒りを共有」するとのお見舞いメッセージをブッシュ大統領に送っていたが、準備した国際緊急援助隊派遣は「必要ない」と米側に断られた。テロに対する非難声明のタイミングも先進国の中では出遅れ感があった。ただ、日米の制服間のやりとりは緊密に行われていた。

日の丸が振られる中、インド洋へ向け出航するイージス艦「きりしま」=2002年12月16日、神奈川県横須賀市の海上自衛隊横須賀基地

  ▽「ショー・ザ・フラッグ」発信はだれ? 

 潮目が変わったのは同時テロ発生から約1週間。小泉首相が9月19日、物資の補給・輸送など7項目の対米支援策を発表したころだった。ワンフレーズ、時として絶叫する本来の「小泉流」を取り戻したような印象だった。筆者の手帳を見ると、この日に海幕、陸幕の担当者からかなり突っ込んだ話を聞いた記載がある。

 この数日前に柳井俊二駐米大使とアーミテージ国務副長官が会談、アーミテージ氏側から「日の丸や日本の顔が見える」協力を示すことが求められたという。やりとりは後に「ショー・ザ・フラッグ」(Show The Flag)という象徴的な言葉で伝わることになる。

 共同通信の先輩記者の著書によると、このフレーズは実は外務省の公電にはない。だが、外務省からその会談や関係情報をまとめた文書にその記載があり、説明を受けた官房副長官の安倍氏がキーワードとしてアーミテージ氏自身の言葉のように受け止めたという。このフレーズは国内では安倍氏が主な発信源とされる。分かりやすい言葉は「拡散」する。 

 舞台裏で日米の折衝が続く中、海自艦艇による洋上給油、補給などの対米支援構想は米側とそれぞれ独自のチャンネルを持つ外務省と海上自衛隊の連携で具現化していった。彼らの背中を押したのは「戦争への気運」だった。テロ攻撃したアルカイダ、それを庇護するアフガニスタンのタリバン政権に対する米国の臨戦態勢が進められていた。 

 ▽安倍氏の発言 

 テロ対策特別措置法。米軍支援のための時限立法は国会でわずか1カ月足らずで成立。それでも間に合わないとばかりに先発隊の護衛艦、補給艦の計3隻を当時の設置法の「調査・研究」名目で出航させ、インド洋・アラビア海に向かう途中で適用法令をテロ特措法に切り替える〝荒技〟を小泉政権はやってのけた。日本にとって最初の「戦時派遣」となった。 

 そこで、前回でも触れたエピソードに着目したい。当時、内閣官房副長官だった安倍氏が01年10月3日の講演会で明かした話だ。派遣が取りざたされていた9月下旬の深夜、自衛隊幹部が安倍氏の自宅を訪ねて「直訴」したという件だ。その幹部は「隊員がけがをしたり亡くなったりした時に、政治家が『すぐ帰ってきなさい』というなら初めから出さないでもらいたい」と強く要望したという。安倍氏に対する制服組のこの働きかけは、不思議なことにメディアによって説が違う。背広に着替えた海自幹部(佐官クラス)とした社もあったし、陸自幹部とした社もあった。 

 同時テロ発生後に対米支援案が固まり始めたころ、陸自も海自も幹部たちが与野党の議員に積極的に説明に回っていた。双方のスタンスは全く違っていた。

 2年余り先のイラク戦争では「戦地派遣」に踏み切る陸自だが、当時は何としてもアフガンへの隊員派遣を阻止しようとしていた。武器使用の基準、補給路も徹底しないまま隊員を拙速に送ってたまるか!という方針だった。そのメンタリティの根底には政治の都合でカンボジア、ルワンダPKOに部隊派遣して苦労させられた痛い経験もあった。必要に迫られて政界との接点を求め、1990年代末ごろには自民党の国防部会などに制服幹部が出席するのは当然のようになり、自民の政策提言にかかわるほど、マンパワーと政治力を発揮させていた。

 一方、海自は米海軍との太いパイプはあったものの、〝ロビー活動〟できる陸自ほど、与野党の議員への影響力はそれほどなかったように思える。海自OBの知己を頼りに、米軍と連携した艦艇派遣の意義を議員らに説いて回っていた。陸も海も官房副長官の安倍氏の元を訪れて(自宅とは限らない)説明した可能性がある。制服組はそれぞれのスタンスを理解してもらえるように必死だったに違いない。

 そうした複数の「陳情」を受けて、直訴された内容がどうであったかは別として、安倍氏は自分なりに解釈して講演会で語った可能性もある。憲法改正を強く意識した最近の首相の国会答弁を聞いていると、そう思える。

 以上、河野氏が海幕防衛課長として過ごした2001年の状況を筆者なりに振り返った。次回は陸自イラク派遣をテーマにしたい。

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新元号「令和」に関し、記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日、首相官邸

 4月1日、新元号「令和」が発表された際に安倍首相は「万葉集には天皇から防人(さきもり)や農民まで幅広い階層の人々の歌が収められている」と語った。万葉集での「防人歌」は、東国から九州の地に送られた農民兵士たちが家族との惜別、郷里から引き裂かれた不安や恐れ、そして夫を送り出した妻の重く深い悲しみを詠んだ作品も含まれている。安倍氏が敢えて「防人」という言葉を使うと「自衛隊」を想起させる。果たして、本来の万葉集でイメージされる庶民の哀愁や苦悩をイメージして使ったのかどうか、首相本人しか分からない。

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