のら猫カンボジアをゆく〜従軍記者カメラマンの足跡をたどって〜(上)

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のら猫カンボジアをゆく〜従軍記者カメラマンの足跡をたどって〜(上)

 

カンボジアにて

 3月、私の54回目の誕生日に、香港島の街を歩いていた時のこと。 

 セントラル(中環)の「ICE HOUSE STREET」のゆるやかな坂を登ってゆくと、赤レンガと化粧漆喰の縞模様が美しい植民地スタイルの建物が目に飛び込んできた。香港FCC(Foreign Correspondents' Club=外国人記者クラブ)だ。

 

 その入り口に掲げられた写真が、ふと私の足を止めた。

 ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』写真展のポスターだった。撮影したのはバジル・パオという写真家。モンティ・パイソンのマイケル・ペイリンとともに旅の写真を撮っていることでも知られる。

 そんなパオによる映画撮影現場の写真展なら見てみたい。しかも普段は一般人の立ち入りはできない建物なので、入館する絶好のチャンスではないか。

 

 のらのらと建物の中に入ってみると、各国の記者たちが情報を交換し合ったり、いつでも記事が書けるような瀟洒なサロンがあった。

 重厚な英国式のバーやレストラン、地下のジャズバー、スポーツジムなどの施設もあり、完璧なホスピタリティが約束されている場所という感じだった。

 

 バジル・パオ氏が撮った『ラストエンペラー』ロケ中の坂本龍一氏の写真などを眺めつつ、周囲をキョロキョロ。

 そこはまるで映画『慕情』のあの特派員が出入りしていたかのような異空間だった。しかも螺旋階段の上に『慕情』の巨大ポスターが飾ってあるではないか。調べてみると、旧FCCの建物が『慕情』のロケ地になっていたことがわかった。

 これぞ、のら猫魂がうなる“豆記者”(自称)の気分だ。

 

 いかにも歴史がありそうな螺旋階段を上ると、そこには第二次世界大戦関連の当時の新聞記事が飾ってあった。VEデイ(ヨーロッパ戦勝記念日)を飾る一面に、沖縄首里の攻防戦の小さな記事を見つけたり、ついじっくり読みたくなってしまう貴重な新聞記事ばかり。

 

 さらに上がると、ガラス張りのテラス席が備わった落ち着いた雰囲気のレストラン。

 そこには沢田教一さんによるあの有名な写真「安全への逃避」(ピューリツァー賞受賞)も飾ってある。

 

歴史ある建築物として有名な香港FCC

 そうか。ここには当時、あの沢田教一さんも出入りしていたにちがいない。

 1968年、沢田さんがUPI通信香港支局の写真部長だったことを思い出した。

 彼は、カンボジアのプノンペンで亡くなっている。

 

 当時、カンボジア内戦を取材するために現地入りしたジャーナリストたちの中でも、亡くなった記者カメラマンの沢田教一さん、一ノ瀬泰造さんはよく知られている。

 彼らをはじめ、多くの外国人ジャーナリストが命を落としているという現実。

 殉職者には日本人が多く、10人にのぼるとも言われている。

 

 共同通信社プノンペン支局の石山幸基さんもその一人。

 1973年、石山さんはクメール・ルージュを取材するためプノンペンの北40キロの古都ウドン近郊の村へ入り、そのまま行方がわからなくなった。

 8年後、1981年に一時捜索に遺族がカンボジア入り。

 18年後にやっと石山さんの埋葬地にたどり着くことができ、遺体の発見までにはなんと36年もかかった。

 

 カメラマン・一ノ瀬泰造さんの場合も、遺体埋葬地の捜索まで9年近くかかっていた。

  

 カンボジア。

 首都はプノンペン。

 この不思議な響きに興味を抱いたのは、小学生の頃だったろうか。

 

 当時の記憶は戦争の万華鏡のようだ。

 ベトナム戦から飛び火した、カンボジア内戦。

 シアヌーク殿下から親米派ロン・ノルのクーデター。

 さらにはポルポト率いる政治勢力クメール・ルージュ。

 運命の渦に巻き込まれてゆくカンボジア。

 

 私が生まれた1965年に、ベトナム北爆が開始。

 75年に、クメール・ルージュがカンボジアの首都プノンペンを制圧。

 そんなこんなが、当時のニュースとしてテレビや新聞で報道されていた。

 同じアジアの国のどこかで起きている戦争と小学校の上空を飛ぶC130(米軍輸送機)の腹を眺めて育った私。

 

 「…… 以上、プノンペン支局より○○特派員がお送りしました」という、ニュースのアナウンスが今でも耳に残っている。

 小学生の私にとって、ベトナムやカンボジアはどこか近くて遠い存在だった。

 

 そんなカンボジア内戦のことを思うと、のら猫豆記者の尻に火が付いた。

 これは「カンボジアへ飛べ」ということではないだろうか。

 

 香港からカンボジアへひとっ飛び。

  香港から2時間半、カンボジア・シェムリアップ空港着。

 空港内でビザを取得。規定サイズの顔写真と60ドルさえあれば即、取れる。

 いよいよ初めてのカンボジア王国へ。

 

初めて歩くカンボジア

 トゥクトゥクというバイクの後ろに4人ほど乗ることができる幌付き座席がある乗り物があり、ツーリストにはタクシーよりも便利だ。空港から9ドルで市内へ。

 

 今時は、トゥクトゥクもスマホのアプリですぐ呼べる。

 Uberに似たGrabというアプリが便利だ。ホテルはネットで予約。

 香港から予約した5000円の宿には、若い欧米人が中庭のプールでピンポンカップインゲームやDJの音楽に合わせ冷えたビール片手にはしゃいでいる。

 

 シェムリアップを起点にしたのは、アンコール遺跡が近いからだ。

 一ノ瀬泰造さんが命をかけて挑んだアンコール遺跡を私も訪れてみたい。

 この浮腫の脚でどこまで登れるかも試してみたかった。

 

 しかし、その前にプノンペン入りせねば今回の旅が始まらない。 

 なぜなら、カンボジア内戦を取材したジャーナリストたちのほとんどがプノンペンを拠点として動いていたからだった。

  

 早速、薄暗い室内でWi—Fiを繋ぎ、プノンペン行きの手配。

 翌日、国内線で40分ほどのフライトでプノンペン入り。

 日中は気温が38度まで上がる。

 トゥクトゥクでの市内移動は危険と判断し、運転手付きの自動車を100ドルでチャーターすることに。

 しかし、前日の数時間でよくここまで手配が整ったものだと我ながら感心する。

 

 プノンペン市内行き先リストを渡すも、今時のドライバーはスマホのナビで動く。

 ナビに打ち込むため、行き先の電話番号を教えろという。

 いちいち調べているうちに、空港から市内への車窓からの眺めなどほとんど見ないで終わるも、プノンペンはシェムリアップよりも渋滞がひどい。

 気付けば、信号が機能していない。計画停電のためだというが、首都が停電とは驚きだ。

 

 最初に向かったのは、「トゥールスレン虐殺博物館(S21政治犯収容所)」。

 ここは元々学校だったと聞く。

 たまたま大勢の地元高校生たちと一緒に見学することになった。

 

 ポルポトが目指した原始共産主義とは? クメール・ルージュとは?

 この場所で考えられない拷問や虐殺があったという事実。

 かれらの心にはどう映っているのだろう。

 私は、見ていて耐えられない気持ちになった。

 

 無差別に虐殺された中には、芸能人、僧侶、知識人(メガネをかけているだけでも認定された)、イギリス人などの外国人もいた。

 彼らへの卑劣な拷問の数々(ムカデをはわせて気絶させたり、生爪をはがしたり、悲鳴をあげてはならないなど)についての解説が続く。

 ナチスアウシュビッツとの類似をあげられることもあるが、違いは、粛清対象を尋問し、記録するというところ。

 尋問は長く、拷問、自白、文書化、報告。果ては殺害。

 しかも、拷問を執行していたクメール・ルージュのほとんどが、まだ13歳くらいの子どもだったという。十分な知識もない彼らに、注射や手術などの医療行為までやらせていたという。

 無垢な子どもたちを、ポルポトの思想に染めていったわけだ。

 同じ人間で、いったいどうしたらこんなに惨たらしい殺戮、残虐な仕打ちができるというのだろう。

 

トゥールスレン虐殺博物館。学び舎に刻まれた繰り返されてはならない歴史

 かすかに揺れる椰子の葉影。

 多くの負の記憶を一気に受けたせいか少し気持ちが弱くなったので、座って休むことにした。

 筆舌に尽くしがたい「負の遺産」。

 しかし、「ここに触れずして先には行けない」。そんな気がしてならなかった。

 この後、キリング・フィールドまで行くことも考えたが、ここだけでもう鬱屈としてしまい断念した。

 

 残虐な出来事から40年くらいしか経っていないという事実。

 カンボジア入国まだ2日目だというのに、この先が思いやられて目眩を感じるほどだった。

 

 太陽は無情に照りつけ気温上昇。

 涼を求め、プノンペンFCCへ駆け込むのら猫豆記者。

 フランス植民地時代を経て当時外国人記者クラブだった建物が、今はレストランバーとホテルにリニューアルされていた。

 

プノンペンFCCに飾ってあるプノンペン陥落の報道写真

 階段の途中には、1975年4月17日、プノンペン陥落の様子の報道写真が掲げてあった。

 

 激動の時代、ひとびとが行き交ったドラマティックな階段。

 フレンチコロニアル情緒たっぷりのレストランには窓もなく風通しがよく、広々としていて、大きなバーカウンターを中心に円形に館内が広がっている。

 裏手にはソファ席や玉突き台。パソコンで仕事をしている人の姿も。

 

 ひんやりしたテラコッタの床で気持ちよさそうに昼寝しているしなやかで細い猫。よくむるとお腹が膨らんでいる。どうやら妊娠しているようだった。

 

 目の前にはトレンサップ川とメコン川を挟んだ中州を望む。なんとも平和な空気が漂っている。

 

 ベトナムからだろうか。

川を行き交う船をテラスの席でぼんやり眺めながら、私は40年前のプノンペンを想像してみる。

 

川を望むテラス

 1970年代末、ポルポト一派がはびこっていたプノンペンには、人影も人の笑い声も消えていただろう。

 貨幣も学問も科学も存在しないという虚無の時代。

 やがて91年のパリ協定にいたるまで、カンボジアは揺れ続けていたのだ。

  「90年代って、ついこないだじゃん」

 

 私は地元産ラム酒をストレートで舐めた。

 カンボジアの肥沃な大地で採れたサトウキビは世界でも優秀だそうだ。

 それで作るクラフト・ラム。

 70年代のプノンペンの市民が知らないその豊かな味わい。

 

 私は、複雑な思いに駆られた。

 クメール王朝として栄えたカンボジアが、なぜこのような悪夢を孕んでしまったのだろう。

 プノンペンで亡くなった沢田教一さんや石山幸基さんもそんな思いだったのかもしれない。

 

 石山さんの慰霊碑がFCC 近くのワットウナロムの中にあった。

 目の前を車で通過したというのに、そのことを知ったのは帰国後だった。

 

 そういえば、ハリウッド俳優エロール・フリンの息子のショーン・フリンもカンボジアで(ゲリラかクメール・ルージュによって?)殺されたらしいが遺体はまだ不明のままだ。

 母親は「WHAT EVER HAPPENED TO SEAN FLYNN?」と刻印された顔写真入りのブック型マッチを空から撒いて捜索し続けたという話もあった。

 

 私は、この地で亡くなったジャーナリストたちのこと、残された家族の思い、ポルポトによる悪夢を映画化した『キリング・フィールド』や、一ノ瀬泰造さんを描いた『地雷を踏んだらサヨウナラ』、ドキュメンタリー映画『カンボジアの失われたロックンロール』の断片でコラージュされてゆく頭を抱えながら、プノンペンをあとにした。

 

彼らが残した足跡をたどる旅

 彼らが残した足跡をたどる旅。 

 彼らが伝えたかったこと。現地を歩く私を通じて伝えられたら……。

 のら猫・豆記者の血は騒ぐのであった。(女優・洞口依子)

 

 つづく