陸自指揮官が語った「攻撃」の瞬間

イラク日報公表から1年(1)

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左は東京・市谷の防衛省正門ゲート 右はイラク南部サマワで、陸上自衛隊の仮宿営地に掲げられる日の丸に敬礼する隊員=2004年2月(共同)

 かつて存在しないとされた陸上自衛隊のイラク派遣時の活動報告(日報)が公表されたのは1年前の4月16日だった。約1万5千ページ、435日分の膨大な資料だったが、陸自サマワ宿営地が2004年4月7日に初めて攻撃された状況を含め、約1年分の迫撃弾、ロケット弾の着弾の様子、差し迫る危険に隊員がどう対応したか記載した日報がすっぽり抜け落ちていて、がく然としたのを覚えている。

 15年前、初の「戦地派遣」となった第1次イラク復興支援群のトップだった番匠幸一郎氏がこのほど都内で会見した。現場指揮官として当時の状況をどう語ったのだろうか。番匠氏のこれまでの経歴を振り返りイラク日報問題が示唆した課題をもう一度考えたい。(共同通信=柴田友明)

2005年7月、イラク南部サマワの陸上自衛隊宿営地のゲートで警戒に当たる陸自車両(共同)

 

 ▽政界・メディアへの働きかけ

 番匠氏は2015年、陸自西部方面総監を退任。現在は総合商社の顧問を務める。講演(日本記者クラブ主催)は「平成とは何だったのか」というテーマで、配布されたレジュメには「防人の任務を振り返って」というサブテーマが付けられていた。

 そのレジュメの最後にまとめとして「『存在の時代』から『行動の時代』」→『本気』『本物』でなければ通用しない時代」と書かれていたのが印象的だった。

 01年9月11日、米同時多発テロの時、番匠氏は陸幕の防衛班長だったと記憶する。テロ直後、わずか1カ月で成立したテロ対策特別措置法に基づきインド洋に艦艇を派遣した海上自衛隊と違って陸自は派遣に極めて慎重だった。武器使用ルールも不明確なまま戦地派遣されることへの危機感を募らせ、メディアや政治家に積極的に働きかけていた。

 陸幕幹部が勉強会で筆者を含めた防衛担当記者にアフガンに派遣されたときに生じるリスクを一つ一つ本音ベースで語ってくれたことを覚えている。永田町では自民党の国防族、与野党議員を対象に幅広く説明役を担ったのが番匠氏ら佐官クラスの制服組だった。政治部記者から彼の名前を頻繁に聞いた。政界・メディアを対象に器用に立ち回りができる存在。従来の制服組とは違った「行動力」あるイメージで語られ始めていた。 

衆院本会議で代表質問に対する答弁漏れに関して壇上で話し合う当時の小泉首相(左)と安倍官房副長官=2001年10月2日午後

 ▽安倍氏への「直訴」 

 そこで、前回、前々回でも触れたエピソードを取り上げたい。当時、内閣官房副長官だった安倍晋三首相が01年10月3日の講演会で明かした話だ。同年9月下旬の深夜、自衛隊幹部が安倍氏の自宅を訪ねて「直訴」したという件だ。その幹部は「隊員がけがをしたり亡くなったりした時に、政治家が『すぐ帰ってきなさい』というなら初めから出さないでもらいたい」と強く要望したという内容だ。

 政権中枢に制服組がストレートにもの申すことは当時として、かなり〝異例な様相〟だ。安倍氏に対する制服組のこの働きかけは、メディアによって説が違う。背広に着替えた海自幹部(佐官クラス)とした社もあったし、陸自幹部とした社もあった。

 ある海自OB幹部は「(当時それは私であるかのような)説が出回ったが誓って私ではない。総理の家に行ったこともない。内容から陸自だった」と筆者に語っている。実態はどうだったのだろうか。

(続く)

2004年3月、イラク南部サマワの仮宿営地に到着した陸上自衛隊の車列(共同)