【高校野球】復興目指す南三陸で起きたひとつのドラマ つながった野球の縁

宮城県南三陸町の志津川高校の支援を続ける大滝隆太さん【写真:高橋昌江】

震災から初めて行った自校での練習試合解禁日 3人の指揮官と「恩人」が再会

 約1か月前の3月10日、東日本大震災で被災した宮城県南三陸町の志津川高グラウンドでは球音が響いていた。震災から8年、自校グラウンドで、初めてのシーズンインだった。

 南三陸町は2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた町だ。あの日、様変わりした町は年月をかけ、復興に向かっている。彼らが駆け回るグラウンドもその1つだ。1年前、そこには仮設住宅が建ち並んでいたが、今では練習試合ができるまでになった。

 志津川高のグラウンドでは塩釜高と佐沼高がやってきて、練習試合が行われていた。塩釜高の百々智之監督は東日本大震災当時の志津川高の監督。佐沼高の松井康弘監督は2011年4月に志津川高へ赴任し、その秋から監督を務めた。志津川高の佐藤克行監督は2015年に赴任し、その夏から指揮を執る志津川高のOB。この日の試合は震災時から監督というポジションをつないできた3人が現在、それぞれに指導するチームが集った特別な試合だった。

そこには志津川高に関わりの深い一人の男性の姿があった。

 北海道在住の大滝隆太さんがグラウンドでその様子をじっと見つめていた。慶応大硬式野球部で主将を務め、東京六大学リーグでベストナインも獲得した経験を持つ73歳。この大滝さんに、3人の監督は声をそろえる。

 恩人、と――。

 8年前の3月。大滝さんはテレビに映し出される被災地の様子に心を動かされていた。

「毎日、テレビを見ていて、『すごいな、なんなんだよ』って思っていてね。そしたらたまたま、南三陸町の佐藤仁町長が津波に流されながらも生還して、『高校野球で培った気力と体力がここに生きて、お陰様で助かりました』なんて言っていたんだよ。そういう人がいるんだって思ってさ」

 南三陸町の佐藤町長は仙台商高で甲子園出場経験がある。そんな野球人の精神に感銘を受けた大滝さん。町に志津川高があることを知り、「支援をしたい」と南三陸町に向かうことを決意した。4月上旬、札幌の自宅を車で出発。函館からフェリーに乗り、青森へ。南三陸町を目指し、東北自動車道を南下した。4月7日の晩に発生した最大の余震に心が折れそうになりながらも、9日に南三陸町に入った。

 中心部に向かう道中、水を入れるポリタンクが大量に並び、自衛隊員が作業をしているところがあった。そこは土木建築業者の遠藤政則さん宅で井戸水を提供していた。大滝さんは車を止め、遠藤さんに話しかけた。すると、遠藤さんの息子はその春に志津川高を卒業したばかりだった。それも野球部に所属し、遠藤さんが保護者会長を務めていたという。奇跡の出会いによって、大滝さんは志津川高野球部とつながった。「何かしらの形でバックアップをしたい」という話がチームに伝わった。

 学校は高台にあり、野球道具は無事だった。震災発生時は練習中だったこともあり、部員たちも無事だった。しかし、津波に自宅を襲われた部員は多かった。百々監督「家を流されて、ユニホームも流された部員が多くて。OBに貸してくれないかと募ったけど、足りない。買うにも親が仕事をなくしている子もいて、お金がない。そんな時に支援すると出てきてくれたのが大滝さんなんです」と振り返る。6月、大滝さんは再び、宮城を訪れて志津川高にユニホーム15着を寄贈した。

 さらに夏の大会まで2回ほど足を運んだ。大滝さんは慶応高で甲子園に出場し、慶大では主将を務め、東京六大学リーグでベストナインを獲得。北海道拓殖銀行でもプレーしたキャリアを持つ。「考え方や経験はプラスになるかもしれない」とチームにアドバイスを送り、大会も見届けた。

思い繋いだ3人の志津川高野球部監督経験者 「ようやくここで野球がやれる」

 大滝さんと志津川高の縁はその後も続いている。大滝さんは毎年のように志津川高を訪れ、野球部と町の復興の歩みを見守ってきた。今年は仮設住宅が撤去されたグラウンドを初めて訪れ、震災時からの歴代の監督が現在、教えている選手たちによるゲームを観戦。始球式を務めた大滝さんは「僕も嬉しかったね」と笑った。

 監督たちの思いも格別だ。佐沼高の松井監督は「感慨深いですよね。しかも、この3校が集まっているあたり、最高です。大滝さんもいたし、有り難いですね。ようやくこういう感じになってよかった。待ちわびていましたから、ここで野球をやれる日を」と喜んだ。震災後、高台にある志津川高のグラウンドには仮設住宅が建った。松井監督が志津川高で指導した5年間は一度もグラウンド全面を使うことができず、在任中は実現できなかったシートノックを初めて打った。

 塩釜高の百々監督は2011年度で志津川高を異動となり、「このグラウンドでやり残したことがいっぱい、ありましたから」と無念の思いが残った。志津川高のグラウンドから仮設住宅が撤去され、初めての練習試合が行われたのは昨年9月29日。相手は塩釜高だった。「このグラウンドで野球ができる最初の瞬間に立ち会いたいと、ここに仮設住宅が建つと決まった瞬間から思っていました」と百々監督。仮設住宅が建つのは仕方のないことだと分かっていても、行き場のない思いがつのった。その思いが晴れた昨秋に続き、この春も参戦した。

 志津川高は震災後、数え切れないほどの支援を受けた。仮設住宅の住民からも多くの応援を受けた。公立校ゆえ、異動は避けられないが、百々監督から松井監督へ、そして佐藤監督へと「思い」と「恩」は確実にリレーされている。その中でも、震災の年に夏の大会に向けてユニホームを寄贈してくれた大滝さんには「感謝しても仕切れない恩がある」と志津川高・佐藤監督。南三陸町で生まれ育ち、現在もこの町で暮らす佐藤監督は「震災後、生徒たちに言うのは、『自分の命を大切にしろ』ということ。命があれば、町もこうやって復興に向かって、前に進める。震災の時は、『この町、終わるのかな』という不安もあったけど、生きているからこそ、こうやって再生もしていけるんです」と言葉に力を込める。

 人々から多くの大切なものを奪い、恐怖や不安を与え、何もかも変えてしまった未曾有の大災害。そんな中にあった1つの“球縁”。ユニホーム寄贈から始まった縁は、震災時からの監督たちを集め、仮設住宅がなくなったグラウンドで練習試合が行えるまでになった。試合後、松井監督は佐藤監督に「来年もやろうよ。やっぱり、意味がある」と言った。もちろん、百々監督も賛同。大滝さんにも伝えられた。来年は練習試合解禁日の3月8日(日)に行われる予定。場所は当然、志津川高のグラウンドだ。8年前に姿を変えた町で「また、来年」。そう言える日常が復興地の光だ。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

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